東京の雨はやみ抜けるような青空が広がっています。まだ風は強いですが。(哲




2009ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102009

 秋の人時計の中に入りゆく

                           松野苑子

場の大時計の窓からおじさんが顔を出し、「おーいこれに掴まれ」と飛行船から落ちそうな男の子にモップブラシを差し出したのは『魔女の宅急便』ワンシーンだった。実際に大時計にいる人でなく芝生に寝転んで遠方の人を何気なく眺めているとその後ろ姿が公園の時計へ吸い込まれてゆくように見えたともとれる。掲句から連想される情景は様々だけど、「時計」と言う言葉が具体物を超えて静かに刻まれる時間をあらわしているように思えるのは「秋の人」の秋が効いているのだろう。夏のあいだ時間を忘れて働いたり遊んだりしていたのに、はやばやと暮れてしまう一日に覚束なさを感じ、うっすらと冷たさを覚える風に自ずと内省的になってゆく。そう思えば道行く人達がそれぞれ見えない時計に入ってゆくように思えてちょっと不思議な心持になった。『真水』(2009)所収。(三宅やよい)


October 07102009

 一人来し松茸山や陽の匂ひ

                           玉川一郎

い松茸・味しめじ――と言われるように、松茸は食感もさることながら匂いがいのちである。松茸とりの名人は赤松林に入っただけで、かすかな匂いから松茸を探り当てると言われる。新鮮なほど匂いは高いわけだから、輸入物ではかなわない。『滑稽雑談』という古書に「松気あり。山中の古松の樹下に生ず。松気を仮りて生ず。木茸中第一なり」とある。茸は何といっても松茸が最高とされるけれども、私たち一般人の口にはなかなか届かない。子どもの頃、父が裏山からとって来た一本の松茸を、七輪でしみじみと焼いていた姿をはっきり記憶している。それを食べさせてもらったか否かは定かではない。「松茸の出る場所は親子でも教えない」と言われるが、観光の松茸狩りでもないかぎり、群がって松茸山へ入るということは考えられない。掲出句では、松茸を求めて呼吸を整え、嗅覚を澄ませているのだろう。首尾よく嗅ぎあてたかどうかは知らないが、松林にこぼれている陽の独特の匂いをまずは嗅ぎあてたのだろう。松茸山で松茸の匂いではなく、「陽の匂ひ」を出してきたところに味わいが感じられる。はたして松茸をとることができたのかどうかはわからないし、どうでもよいことなのだ。芭蕉の句「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」は、目の付けどころがおもしろい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 06102009

 電球のやうにぷつくら茶の蕾

                           本井 英

う40年近い過去になるが、生まれ育った静岡市内では、通学路の右に左に茶畑があった。社会科実習では茶摘みを体験した覚えもあるが、茶畑といえば身をかがめて畝から畝へ移動する下校のかくれんぼを思い出す。ランドセルが茶の木から飛び出さないように、腹に抱えるのが鉄則だった。柔らかな葉に縁取られたときも、葉の刈り込まれた坊主頭も、ぼさぼさの冬の時代も全部知っている兄弟のような木に、花が咲くことを知ったのはいつ頃だろうか。身をかがめた下枝のあたりに、目立たない白い花を見つけたときには、そっと触れずにはいられない嬉しさを感じたものだ。掲句の見立ては、蕾の愛らしいかたちとともに、ぽっと灯るような静かなたたずまいを思わせる。茶の花は桜のような満開にならないと思っていたが、茶畑の茶の木は葉の育成のため、あまり花を咲かせないように過剰に栄養を与えているという。吉野弘の「茶の花おぼえがき」という散文詩に、「長い間、肥料を吸収しつづけた茶の木が老化して、もはや吸収力をも失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか」という忘れられない文章がある。長い長い詩のほんの一部分である。『八月』(2009)所収。(土肥あき子)




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