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October 07102009

 一人来し松茸山や陽の匂ひ

                           玉川一郎

い松茸・味しめじ――と言われるように、松茸は食感もさることながら匂いがいのちである。松茸とりの名人は赤松林に入っただけで、かすかな匂いから松茸を探り当てると言われる。新鮮なほど匂いは高いわけだから、輸入物ではかなわない。『滑稽雑談』という古書に「松気あり。山中の古松の樹下に生ず。松気を仮りて生ず。木茸中第一なり」とある。茸は何といっても松茸が最高とされるけれども、私たち一般人の口にはなかなか届かない。子どもの頃、父が裏山からとって来た一本の松茸を、七輪でしみじみと焼いていた姿をはっきり記憶している。それを食べさせてもらったか否かは定かではない。「松茸の出る場所は親子でも教えない」と言われるが、観光の松茸狩りでもないかぎり、群がって松茸山へ入るということは考えられない。掲出句では、松茸を求めて呼吸を整え、嗅覚を澄ませているのだろう。首尾よく嗅ぎあてたかどうかは知らないが、松林にこぼれている陽の独特の匂いをまずは嗅ぎあてたのだろう。松茸山で松茸の匂いではなく、「陽の匂ひ」を出してきたところに味わいが感じられる。はたして松茸をとることができたのかどうかはわからないし、どうでもよいことなのだ。芭蕉の句「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」は、目の付けどころがおもしろい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1562016

 梅雨空に屋根職(やねしき)小さき浅草寺

                           玉川一郎

陶しい梅雨空がひろがっている。参道から見上げると、浅草寺本堂の大きな屋根を修繕している職人の姿が、寺の大きさにくらべ小さく頼りないものとして眺められる。梅雨曇りの空だから、見上げるほうも気が気ではない。はっきりしない梅雨空に、屋根職の姿と寺の大きさが際立っていて、目が離せないのであろう。「屋根職」は屋根葺きをする職人のこと。先日のテレビで、せっかく浅草寺を訪れた外人観光客たちが、テントで覆われた雷門にがっかりしている様子が紹介されていた。気の毒であったけれどやむをえない。そう言えば何年か前、私が浅草寺を訪れたとき、本堂改修のためあの大きな本堂がすっぽり覆われていて、がっかりしたことがあった。ミラノの有名なドゥオーモ(大聖堂)を初めて訪れたときも、建物がすっぽり覆われていたことがあって「嗚呼!」と嘆いた。しかもそのとき、無情にも2月の雪が降りしきっていた。そんなアンラッキーなこともある。一郎には他に「杉高くまつりばやしに暮れ残る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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