October 042009
街燈は夜霧にぬれるためにある
渡辺白泉
この句、どう考えてもまっすぐに詠まれたようには思われません。おちょくっているのではないのでしょうか。おちょくられているのは、もちろん歌のありかた。固定的、画一的な抒情と言い換えてもいいかもしれません。「夜霧」といえば「哀愁」ときて、どうしても椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」を思い出してしまいます。本日の句の「ためにある」のところは、そのまま「降るのだ」にあたり、それまでまじめな顔をしていたものが、一気に崩れてしまうことの滑稽さがおり込まれています。まじめに書かれていないものを、まじめに読む必要はないのかもしれませんが、それでもまじめに考えてみる価値はありそうです。とはいうものの、考えるよりも先に、パターン化された抒情に未だぐっときてしまうわたしなどには、わたし自身がおちょくられているような気にもなってしまいます。人になんと言われようと、慕情やブルースという言葉の響きが好きだし、波止場やマドロスの詩だって、もっと読みたいと思ってしまうものは、しかたがありません。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)
October 032009
兵役の無き民族や月の秋
石島雉子郎
太陽は、すべてを照らすみんなのものという感じだけれど、月は、どうしても一対一でさし向かう気持ちになる。月を見ていながら自分自身と向き合っているような気もして、漠とした寂寥感につつまれる。そしてふと、あの人も同じ月を仰いでいるだろうか、と誰かを思い出したりするのだ。八月の終わりに韓国を旅した時、何気なく見上げた空に半月がうすく滲んでいて、ああ、月だ、と不思議な懐かしさを覚えた。異国の空で仰ぐ月は、郷愁を誘う。今この句を読むと、とりあえずは平和そうに見える日本の空に輝く今日の月が思われる。しかしこの句が詠まれたのは大正三年。作者は朝鮮半島に渡っていて、その頃は今とは逆に徴兵制があったのは日本。そう思って読むと、民族、の一語が重く響く。雉子郎はその後大正十年まで約八年間、救世軍の大尉として力を尽くしたが、大陸での暮らしは苦労も多く、授かった四人の子を次々に亡くしたとも聞いている〈頬凍てし子を子守より奪ひけり〉。今宵十五夜、長期予報は芳しくないけれど月やいかに。「ホトトギス雑詠選集 秋」(1987・朝日新聞社)所載。(今井肖子)
October 022009
昨夜夢で逝かしめし妻火吹きおり
野宮猛夫
昨夜夢の中で死なせてしまった妻が今火吹き竹で火を起こしている。夢の中でどんなに悲嘆にくれておろおろしたことだろう。亡骸に向かって、あれもしてやればよかった、これも聞いてやればよかったと後悔ばかりがこみ上げて自分を責めて責めて。それにしてもどうしてあんな夢を見たのだろうか。伴侶への愛情というものが、それを表現する直接的な言葉を用いていないにもかかわらず切々と響いてくる。何より発想が斬新。そういえば私もそんな夢を見たことがあると読者を肯かせながら、それでいて誰もこれまでに詠むことのなかった世界。そんな「詩」の機微はいたるところに転がっているのだ。昨夜は音律本位でいえば「きぞ」と読むべきかもしれないが、日常感覚を重視するという意味でふつうに「さくや」と僕は読みたい。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)
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