2009N10句

October 01102009

 名月やうっかり情死したりする

                           中山美樹

年の中秋の名月はこの土曜日。東京のあちこちでお月見の会が催されるようである。仲秋の名月ならずとも、秋の月は水のように澄み切った夜空にこうこうと明るく、月を秋とした昔の人の心がしのばれる。今頃でも「情死」という言葉は生きているのだろうか。許されぬ恋、禁断の恋、成就できない恋は周囲の反対や世間という壁があってこその修羅。簡単に出会いや別れを繰り返す昨今の風潮にはちと不似合いな言葉に思える。それを逆手にとっての掲句の「うっかり」で、「情死」という重さが苦いおかしみを含んだ言葉に転化されている。ふたりで名月を見つめるうちに何となく気持ちがなだれこんで「死のうか」とうなずき合ってしまったのだろうか。霜田あゆ美の絵に素敵に彩られた句集は絵本のような明るさだけど、そこに盛り込まれた恋句はせつなく、淋しい味わいがある。「こいびとはすねてひかりになっている」「かなかなかな別れるときにくれるガム」『LOVERS』(2009)所収。(三宅やよい)


October 02102009

 昨夜夢で逝かしめし妻火吹きおり

                           野宮猛夫

夜夢の中で死なせてしまった妻が今火吹き竹で火を起こしている。夢の中でどんなに悲嘆にくれておろおろしたことだろう。亡骸に向かって、あれもしてやればよかった、これも聞いてやればよかったと後悔ばかりがこみ上げて自分を責めて責めて。それにしてもどうしてあんな夢を見たのだろうか。伴侶への愛情というものが、それを表現する直接的な言葉を用いていないにもかかわらず切々と響いてくる。何より発想が斬新。そういえば私もそんな夢を見たことがあると読者を肯かせながら、それでいて誰もこれまでに詠むことのなかった世界。そんな「詩」の機微はいたるところに転がっているのだ。昨夜は音律本位でいえば「きぞ」と読むべきかもしれないが、日常感覚を重視するという意味でふつうに「さくや」と僕は読みたい。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


October 03102009

 兵役の無き民族や月の秋

                           石島雉子郎

陽は、すべてを照らすみんなのものという感じだけれど、月は、どうしても一対一でさし向かう気持ちになる。月を見ていながら自分自身と向き合っているような気もして、漠とした寂寥感につつまれる。そしてふと、あの人も同じ月を仰いでいるだろうか、と誰かを思い出したりするのだ。八月の終わりに韓国を旅した時、何気なく見上げた空に半月がうすく滲んでいて、ああ、月だ、と不思議な懐かしさを覚えた。異国の空で仰ぐ月は、郷愁を誘う。今この句を読むと、とりあえずは平和そうに見える日本の空に輝く今日の月が思われる。しかしこの句が詠まれたのは大正三年。作者は朝鮮半島に渡っていて、その頃は今とは逆に徴兵制があったのは日本。そう思って読むと、民族、の一語が重く響く。雉子郎はその後大正十年まで約八年間、救世軍の大尉として力を尽くしたが、大陸での暮らしは苦労も多く、授かった四人の子を次々に亡くしたとも聞いている〈頬凍てし子を子守より奪ひけり〉。今宵十五夜、長期予報は芳しくないけれど月やいかに。「ホトトギス雑詠選集 秋」(1987・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


October 04102009

 街燈は夜霧にぬれるためにある

                           渡辺白泉

の句、どう考えてもまっすぐに詠まれたようには思われません。おちょくっているのではないのでしょうか。おちょくられているのは、もちろん歌のありかた。固定的、画一的な抒情と言い換えてもいいかもしれません。「夜霧」といえば「哀愁」ときて、どうしても椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」を思い出してしまいます。本日の句の「ためにある」のところは、そのまま「降るのだ」にあたり、それまでまじめな顔をしていたものが、一気に崩れてしまうことの滑稽さがおり込まれています。まじめに書かれていないものを、まじめに読む必要はないのかもしれませんが、それでもまじめに考えてみる価値はありそうです。とはいうものの、考えるよりも先に、パターン化された抒情に未だぐっときてしまうわたしなどには、わたし自身がおちょくられているような気にもなってしまいます。人になんと言われようと、慕情やブルースという言葉の響きが好きだし、波止場やマドロスの詩だって、もっと読みたいと思ってしまうものは、しかたがありません。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 05102009

 さんま食いたしされどさんまは空を泳ぐ

                           橋本夢道

えを詠んだ句を、私は贔屓せずにはいられない。あれは心底つらい。いまでも鮮明に覚えているが、敗戦直後は三度の食事もままならず、やっと粥が出てきたと思ったら、湯の中に米が数十粒ほど浮かんでいるという代物だった。これでは腹一杯になるはずもないと、食べる前から絶望していた記憶。いつか丼一杯の白飯を食べてみたいというのが人生最大の夢だった記憶。掲句は有名な「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」を第一句とする連作のうちの一句だ。「さんま」が食いたくて、矢も盾もたまらない。今日の読者の多くは、空を泳ぐさんまの姿を手の届かぬ高価な魚の比喩として理解し、たいした句ではないと思うかもしれない。無理もない。無理もないのだけれど、この解釈はかなり違う。なぜなら、この空のさんまは、作者には本当に見えているのだからだ。飢えが進行すると、一種の幻覚状態に入る。ときには陶酔感までを伴って、飢えていなければ見えないものが実際に見えてくるものだ。子供が白い雲を砂糖と思うのは幻覚ではなく知的作業の作るイメージだが、これを白米と思ったり、形状からさんまに見えたりするのは実際である。元来作者はイメージで句作するひとではないし、句は(糞)リアリズム句の一貫なのだ。つまり壮絶な飢えの句だ。いまの日本にも、こんなふうに空にさんまを見る人は少なくないだろう。今日の空にも、たくさんのさんまが泳いでいるのだろう。それがいまや全く見えなくなっている私を、私は幸福だと言うべきなのか。言うべきなのだろう。新装版『無禮なる妻』(2009・未来社)所収。(清水哲男)


October 06102009

 電球のやうにぷつくら茶の蕾

                           本井 英

う40年近い過去になるが、生まれ育った静岡市内では、通学路の右に左に茶畑があった。社会科実習では茶摘みを体験した覚えもあるが、茶畑といえば身をかがめて畝から畝へ移動する下校のかくれんぼを思い出す。ランドセルが茶の木から飛び出さないように、腹に抱えるのが鉄則だった。柔らかな葉に縁取られたときも、葉の刈り込まれた坊主頭も、ぼさぼさの冬の時代も全部知っている兄弟のような木に、花が咲くことを知ったのはいつ頃だろうか。身をかがめた下枝のあたりに、目立たない白い花を見つけたときには、そっと触れずにはいられない嬉しさを感じたものだ。掲句の見立ては、蕾の愛らしいかたちとともに、ぽっと灯るような静かなたたずまいを思わせる。茶の花は桜のような満開にならないと思っていたが、茶畑の茶の木は葉の育成のため、あまり花を咲かせないように過剰に栄養を与えているという。吉野弘の「茶の花おぼえがき」という散文詩に、「長い間、肥料を吸収しつづけた茶の木が老化して、もはや吸収力をも失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか」という忘れられない文章がある。長い長い詩のほんの一部分である。『八月』(2009)所収。(土肥あき子)


October 07102009

 一人来し松茸山や陽の匂ひ

                           玉川一郎

い松茸・味しめじ――と言われるように、松茸は食感もさることながら匂いがいのちである。松茸とりの名人は赤松林に入っただけで、かすかな匂いから松茸を探り当てると言われる。新鮮なほど匂いは高いわけだから、輸入物ではかなわない。『滑稽雑談』という古書に「松気あり。山中の古松の樹下に生ず。松気を仮りて生ず。木茸中第一なり」とある。茸は何といっても松茸が最高とされるけれども、私たち一般人の口にはなかなか届かない。子どもの頃、父が裏山からとって来た一本の松茸を、七輪でしみじみと焼いていた姿をはっきり記憶している。それを食べさせてもらったか否かは定かではない。「松茸の出る場所は親子でも教えない」と言われるが、観光の松茸狩りでもないかぎり、群がって松茸山へ入るということは考えられない。掲出句では、松茸を求めて呼吸を整え、嗅覚を澄ませているのだろう。首尾よく嗅ぎあてたかどうかは知らないが、松林にこぼれている陽の独特の匂いをまずは嗅ぎあてたのだろう。松茸山で松茸の匂いではなく、「陽の匂ひ」を出してきたところに味わいが感じられる。はたして松茸をとることができたのかどうかはわからないし、どうでもよいことなのだ。芭蕉の句「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」は、目の付けどころがおもしろい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 08102009

 秋の人時計の中に入りゆく

                           松野苑子

場の大時計の窓からおじさんが顔を出し、「おーいこれに掴まれ」と飛行船から落ちそうな男の子にモップブラシを差し出したのは『魔女の宅急便』ワンシーンだった。実際に大時計にいる人でなく芝生に寝転んで遠方の人を何気なく眺めているとその後ろ姿が公園の時計へ吸い込まれてゆくように見えたともとれる。掲句から連想される情景は様々だけど、「時計」と言う言葉が具体物を超えて静かに刻まれる時間をあらわしているように思えるのは「秋の人」の秋が効いているのだろう。夏のあいだ時間を忘れて働いたり遊んだりしていたのに、はやばやと暮れてしまう一日に覚束なさを感じ、うっすらと冷たさを覚える風に自ずと内省的になってゆく。そう思えば道行く人達がそれぞれ見えない時計に入ってゆくように思えてちょっと不思議な心持になった。『真水』(2009)所収。(三宅やよい)


October 09102009

 無月かな佐助のごときひとが欲し

                           津森延世

まざまな「佐助」がいると思うけど、僕など佐助といえば猿飛佐助しか浮かばない。無月の夜に甲賀忍者佐助を思うのはよくわかる。なんとなく巻物を咥えて出てきそうな雰囲気があるから。しかし、作者がどうして佐助のようなひとが欲しいと思うのかが謎であり、この句の魅力なのだ。作者は女性だから、女として佐助のような男がいたらいいなと思っている。友人としてなんてつまらないから、恋人として。神出鬼没で身がかろやかで、手品どころか忍術を使える男。今でいうとおもしろくて飽きない男を作者はお望みなのだ。佐助より佐助が仕えた真田幸村の方が男としては上ではないかなどと思うが幸村の恋人だといざというとき自刃せねばならない。やっぱり佐助くらいでいい。美人の超人気女優が漫才タレントとくっつくのもその伝かもしれない。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)


October 10102009

 秋晴や攀ぢ登られて木の気分

                           関田実香

前は体育の日であった十月十日。東京オリンピックの開会式を記念して定められたこの日に結婚した知人の体育教師は、ハッピーマンデー制度で体育の日が毎年変わることになり困惑していたが、月曜に国民の休日がかたよるのもまことに一長一短だ。十月十日は晴の特異日とも言われているが、確かに十月の秋晴の空は、高くて深い。掲出句、よじ登られているのは母であり、よじ登っているのは我が子。〈八月の母に纏はる子は惑星〉と〈秋燈を旨さうに食む赤子かな〉にはさまれているといえばよりはっきりするが、一句だけ読んでも見えるだろう。吸い込まれるような青さに向かって、母のあちこちを掴みながら、その小さい手を空に向かって伸ばす我が子と絡まりながら、ふと木の気分だという。母とは、木のように大地に根を張った存在だ、などというのではなく、まさにそんな気分になったのだ。ただ可愛くてしかたないというだけでない句、作者の天性の感受性の豊かさが、母となってさらに、よい意味でゆとりある個性的な詩を生んでいると感じた。「俳句」(2009年8月号)所載。(今井肖子)


October 11102009

 墓のうらに廻る

                           尾崎放哉

ちろん季はありません。無季の句です。もしもこれを句というのなら、ということですが。現代詩にも、たまに限りなく短いものがありますが、ではこの一行が「句」であって「詩」ではないのはなぜなのでしょうか。人それぞれに解釈の方法があるでしょうが、「詩」をこれほどに短くするときには、おそらく、それ相応の世界の広がりを作品の奥に持たせようとします。もっと力みがはいるはずです。対して句のほうは、ただの行為をあるがままのものとして作品としてしまいます。そんなことができるのは、たぶん「句」だけです。詩で真似しても、ここまで徹底することは出来ません。で、なぜ墓の裏に廻ったのでしょうか。普通に考えるなら、墓石に彫られた戒名や命日を確認するためです。「うらに廻る」という行為が、コノヨの外を覗き込むという意味を持たせているのかもしれません。形式が自由なわりに、句から想像される事柄はずいぶんと限られています。それでもこの句にひかれるのは、動きそのものが、妙な実感を伴っているからなのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 12102009

 金木犀闇にひたりと父在りき

                           柴田千晶

親にとって子供はたしかに存在するが、子供にとっての父親は虚構のような存在なのかもしれない。子供に父親の実在は認識できても、それはほとんど他者の実在に対する認識と同じようである。なぜその人が、自分と同じ場所にいつも一緒にいなければならないのか。いま一つ、実感的な必然性に欠けるのが父親というものであるようだ。そこが母親とは大いに異なるところである。掲句を読んで、ことさらにその感を深くした。たしかに「父在りき」と詠まれてはいるけれど、この父は存命のときさながらに「在る」のではない。具象的なかたちを伴わず、非常に抽象的に存在している。解釈を百歩ゆずっても、せいぜいが半具象的な父親像である。それは闇のなかでは芳香が強いことでのみ存在感を示す金木犀と同様に、父親の「在る」姿は確固たるものからはほど遠く、あたりにただ瀰漫しているといったふうである。だから作者が「父在りき」というときに、父親は明確な像を結ぶのではなく、かなり茫漠とした印象である。つまり、句の父は父親というよりも、むしろ「父性」に近い言葉なのだと思う。同じ句集に「徘徊の父と無月の庭に立つ」があり、きわめて具体的な情景ではあるが、闇の庭でかたわらに立っている父親はまるで実感的な絆のない他者のようではないか。このように写るのは「徘徊」する父だからではなくて、父性というものが属性として遂に徘徊性を避けられないからだろうなと、納得しておくことにした。『赤き毛皮』(2009)所収。(清水哲男)


October 13102009

 月入るや人を探しに行くやうに

                           森賀まり

陽がはっきりした明るさを伴って日没するのと違い、月の退場は実にあいまいである。日の出とともに月は地平線に消えているものとばかり思っていた時期もあり、昼間青空に半分身を透かせるようにして浮かぶ白い月を理解するまで相当頭を悩ませた。月の出時間というものをあらためて見てみると毎日50分ずつ遅れており、またまったく出ない日もあったりで、律儀な日の出と比べずいぶん気ままにも思えてくる。実際、太陽は月の400倍も大きく、400倍も遠いところにあるのだから、同じ天体にあるものとしてひとまとめに見てしまうこと自体乱暴な話しなのだが、どうしても昼は太陽、夜は月、というような存在で比較してしまう。太陽が次の出番を待つ国へと堅実に働きに行っている留守を、月が勤めているわけではない。月はもっと自由に地球と関係を持っているのだ。本日の月の入りは午後2時。輝きを控えた月が、そっと誰かを追うように地平線に消えていく。〈道の先夜になりゆく落葉かな〉〈思うより深くて春のにはたづみ〉『瞬く』(2009)所収。(土肥あき子)


October 14102009

 焚くほどは風がもてくる落葉かな

                           良 寛

語として「落葉」は冬だけれど、良寛の句としてよく知られた代表句の一つである。越後の国上山(くがみやま)にある古刹・国上寺(こくじょうじ)に付属する小さな五合庵の庭に、この句碑はのっそり建っている。もともと同寺が客僧を住まわせ、日に五合の米を給したところから名前がついた。良寛はここに四十歳から約二十年近く住んだ。同庵をうたった詩のなかに「索々たる五合庵/室は懸磬(けんけい)のごとく然り/戸外に杉千株」「釜中時に塵あり/甑裡(そうり)さらに烟なし」などとある。煮焚きをするのに余分なものはいらない。あくせくせず、ときに風が運んできてくれる落葉で事足りるというわけである。落葉一枚さえ余分にいらないという、無一物に徹した精神であり、そうした精神を深化させる住庵の日々であったと言える。「わが庵を訪ねて来ませあしびきの山のもみぢを手折りがてらに」「国上山杉の下道ふみわけて我がすむ庵にいざかへりてん」など、草庵での日々を詠んだ歌がたくさん残されている。山の斜面にひっそりと建つ五合庵から托鉢に出かけるには、夏場はともかく、雪に閉じ込められる冬場は、難渋を強いられたであろうことが容易に推察される。大島花束編『良寛全集』には「たくだけは風がもて来る落葉かな」とあり、一茶の日記には「焚くほどは風がくれたる……」というふうに、異稿も残されている。『良寛こころのうた』(2009)所収。(八木忠栄)


October 15102009

 水栽培したくなるよな小鳥来る

                           中居由美

休3日間はからっとして気持ちのよい晴天が続いた。玉川上水に沿って歩くと林の奥から様々な小鳥の鳴き声が聞こえてくる。「小鳥」と言えば大陸から渡ってくる鳥ばかりでなく、山地から平地へ移ってくる鳥も含むらしい。鶸、連雀、セキレイ、ツグミ、ジョウビタキなど、小鳥たちの種類もぐっと多彩になるのが今の季節だろう。北九州に住んでいたときは季節によって見かける小鳥の種類が変わったことがはっきりわかったけど、東京に来てからは武蔵野のはずれに行かなければなかなか小鳥たちにお目にかかれない。水のように澄み切った秋空を渡ってくる彼らを「水栽培したくなるよな」と歌うような調子で迎え入れている作者の心持ちが素敵だ。「小鳥来る驚くほどの青空を」という中田剛の句があるが、この句同様、真っ青な秋空をはずむようにやってくる小鳥たちへの愛情あふれる挨拶という点では共通しているだろう。『白鳥クラブ』(2009)所収。(三宅やよい)


October 16102009

 とぶ意思なきはたはた次は誰と遭ふ

                           津田清子

たはた(ばった)が飛ぶ意思がないとどうしてわかるのか。それは人が近づいても飛ぼうとしないからだ。飛ぼうとしないばったにこれから何人の人が気づくのだろう。広大な世界の中のほんの一点に確かに息づく生命があって、その存在にかかわることなく無数の存在が通りすぎていく。このはたはたは実は作者そのものだ。人間そのものだ。という寓意に入る前に対象そのもののリアルが生かされていることが優れた「詩」の条件だと僕は思う。生て在ること、そのものの途方もないさびしさをこのはたはたが訴えかけている。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)


October 17102009

 障子貼る庭の奥まで明るき日

                           荒川ともゑ

子の張り替えは一仕事だけれど、真新しい障子越しの日差しの中で、ぼんやりと達成感を感じている時間は幸せだ。張り替えた障子が日を吸ってだんだんピンとしてなじんでくるのもうれしい。障子貼る、は冬支度ということで晩秋だが、リビングに障子をしつらえていた我が家では、ついつい大掃除の一環で張り替えが年末近くに。水が冷たい上、晴れていても日差しはどこか弱々しく、来年こそと思うのだがなかなか。掲出句のように、濃い秋日がすみずみまで行き渡るような日こそ、障子貼り日和だろう。何気ない句だが、奥まで、という表現に、澄んだ空や少しひんやりとした風、末枯れの始まった草やちらほら紅葉し始めた木々が見えてくる。秋の日差がくまなく行き渡り、形あるものにくっきりとした影をひとつずつ与えている一日である。現在我が家は建て替え中、仮住まいのマンションに障子はない。新しい家にも同じように障子を入れたかったのだが、諸事情により障子紙でなくワーロンという合成紙を使用することになった。張り替えの必要がないのは楽だけれど寂しくもある。「花鳥諷詠」(2009・9月号)所載。(今井肖子)


October 18102009

 手榴弾つめたし葡萄てのひらに

                           高島 茂

句を読み慣れている人には容易に理解できる内容も、めったに句を読む機会のないものには、短すぎるがゆえに何を表現しているのか正確にはわからないことがあります。たとえば本日の句では、てのひらに載っているのは手榴弾でしょうか、あるいは葡萄でしょうか。どちらかがどちらかの比喩として使われていると思われるものの、断定ができません。間違いなくわかるのは、「つめたし」が手榴弾にも葡萄にも感じられるということ。どちらにしても双方の、小さな突起を集めた形と、個々の表面に感じる冷たさが、作者の複雑で繊細な心情をしっとりと表しています。ほどよい大きさの、それなりの重さを手に持つことは、なぜか気持ちのよいものです。生き物ではなく、物に触れることによってしか保てない心というものが、たしかにあります。手榴弾、葡萄という魅力的に字画の多い漢字を、「つめたし」「てのひらに」のひらがながやさしく囲っています。じっと冷え切った物に対峙するようにして、柔らかな皮膚をもった私たちが、句の中に置かれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 19102009

 草の実のはじけ還らぬ人多し

                           酒井弘司

書きに「神代植物公園」とある。四句のうちの一句。我が家からバスで十五分ほどのところなので、よく出かけて行く。年間パスというものも持っている。秋のこの公園といえば、薔薇で有名だ。広場に絢爛と咲き誇るさまは、とにかく壮観である。しかし、作者は四句ともに薔薇を詠み込んではいない。目がいかなかったはずはないのだけれど、それよりも名もない雑草の実などに惹かれている。作者は私と同年齢だから、この気持ちはよくわかるような気がする。華麗な薔薇よりも草の実。それらがはじけている様子を見るにつけ、人間もしょせんは草の実と同じような存在と感じられてきて、これらの草の実とおなじように土に還っていった友人知己のことが思い出される。そんな人々の数も、もうこの年齢にまでなると決して少なくはない。そこで作者は彼らを懐かしむというよりも、むしろ彼らと同じように自身の還らぬときの来ることに心が動いているようだ。自分もまた、いずれは「多し」のひとりになるのである。この句を読んだときに、私は半世紀も前に「草の実」を詠んでいることを思い出した。「ポケットにナイフ草の実はぜつづく」。この私も、なんと若かったことか。掲句との時間差による心の移ろいを、いやでも思い知らされることになったのだった。『谷風』(2009)所収。(清水哲男)


October 20102009

 芙蓉閉づをんなにはすぐ五時が来て

                           坂間晴子

蓉の季節の午後五時は、ちょうど日の入り間近の時間である。秋の晴天は日が沈むとみるみる暗くなる。またたく間の日の暮れかたで、ようやく夜がそこまで近づいていることに気づく。五時とは不思議な時間である。掲句の、女に近寄る五時とは、生活時間だけではなく、ふと気づくとたちまち暮れてしまう人生の時間も指しているが、芙蓉の花がむやみな孤独から救っている。朝咲いて夕方には萎んでしまう芙蓉が悲しみを伴わないのは、数カ月に渡って次々と花を咲かせるからだろう。すぐ五時が来て、夜が訪れるが、また朝もめぐることを予感させている。年齢を3で割ると人生の時間が表れるという。24歳の8時は働き始め、30歳は10時、45歳は15時でひと休み。黄昏の17時は51歳となる。所収の句集は、昭和三年生まれの作者が50歳になる前に編まれたもの。四十代の女性の作品として紹介していただいた句集である。若くもなく、かといって老いにはまだ間のある四十代を持て余しているようなわたしに、こつんと喝を入れる一冊となった。〈ヘアピンもて金亀子の死を確かむる〉〈背を割りて服脱ぎおとす稲光〉〈水澄むやきのふのあそびけふ古ぶ〉『和音』(1976)所収。(土肥あき子)


October 21102009

 葱に住む水神をこそ断ちませい!

                           天沢退二郎

てよし、焼いてよし、またナマでよし――葱は大根とならんで、私たち日本人の食卓に欠かせない野菜である。スーパーから帰る人の買物籠にはたいてい長葱が涼しげに突っ立っている。最近は産地直送の泥のついた元気な葱もならんでいる。買物好きの退二郎には、かつて自転車に買物籠を付けて走りまわっていたことを、克明に楽しげに書いたエッセイがあった。そういう詩人が葱を詠んだ俳句であり、妙にリアリティが感じられる。水をつかさどり、火災から守るという水神さまが、あの細い葱のなかに住んでいらしゃるという発想はおもしろいではないか。葱は水分をたっぷり含んでいて、その澄んだ水に水神さまがおっとり住んでいるようにも想像される。葱をスパッと切ったり、皮をひんむくという発想の句はほかにあるけれど、「断ちませい!」という下五の口調はきっぱりとしていながら、ユーモラスな響きも含んでいる。葱にふさわしい潔さも感じられる。関東には深谷葱や下仁田葱など、おいしい葱が店頭をずらりと白く飾っている。鍋料理がうれしい季節だ。蕪村は「葱買うて枯木の中を帰りけり」という句を詠んでいるが、葱が匂ってくるようでもある。退二郎は葱の句をまとめて十句発表しているが、他に「葱断つは同心円の無常観」「葱断つも葱の凹(へこ)まぬ気合いこそ」などがある。「蜻蛉句帳」41号(2009)所載。(八木忠栄)


October 22102009

 棒切れで打つ三塁打柿熟るる

                           ふけとしこ

さい頃は近所の友だちとよく野球のまねごとをした。まずは男の子に混じって、庭先や路地の奥でささくれのないすべすべの木切れを探す。なかなか好条件の棒切れに出合えず折れ釘で手を引っ掻いたり、指に棘が立つのはしょっちゅうだった。小遣いで買ったゴムボールはあたればあっというまに塀を越してホームラン。そのたびごとにチャイムをならしてボールを探させてもらった。打つ順番はなかなかこなくって外野でぼんやり眺めているとたちまちにボールは後ろに飛び去っていく。走者にボールを当てればアウトとか、あの木まで飛べば三塁打とか、そのときの人数や場所のサイズに合わせてルールを決めていたっけ。たわわに熟れる柿と三角ベース、そんな光景もセピア色の思い出になってしまったが、さて今の子供たちはこの気持ちのよい季節にどんな遊びを記憶に残すのだろう。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)


October 23102009

 田圃から見ゆる谷中の銀杏かな

                           正岡子規

規が見る景色すなわち子規の作品の中の風景というのは「見ること」「見えること」そのこと自体を目的とする風景のように思えてならない。何を見るのかということや、見て何に感動するということよりも、見るということ自体に意味がある、そんな風景である。たんぼの中から谷中の銀杏の巨木を見ている。子規つまり、内部に「生きている私」を抱えた存在が眼という窓を通して風景を見ている。見ていること自体が存在することなのだ。この句から谷中の下町の風情などを読み取ろうとするのは子規の写生を読み解く本意にあらずと僕は思う。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)


October 24102009

 この道の富士になり行く芒かな

                           河東碧梧桐

根仙石原の芒野の映像を数日前に観た。千石の米の収穫を願って名付けられたにもかかわらず生えてきたのは芒ばかり、結局芒の名所になったとか。かつて箱根の入口に住んでいたので、この芒原は馴染み深いが、数年前の早春、焼かれたばかりの仙石原を訪れてその起伏にあらためて驚かされた。あのあたりは、かつては芦ノ湖に没していたというが、金色の芒の風に覆われている時には気づかなかった荒々しい大地そのものがそこにあった。この句の芒原は富士の裾野。一読して、広々とした大地を感じる。明治三十四年の虚子の句日記に「七月十七日、河東碧梧桐等と富士山に登る」とある。掲出句は、同年の「ホトトギス」九月号に掲載。虚子二十七歳、碧梧桐二十八歳、子規の亡くなる前年である。富士になり行く、という表現の独創性、芒にいちはやく秋の気配を感じる繊細さ。その直後からの碧梧桐の人生に思いを馳せると、この句の健やかさがいっそうしみてくる。「俳句歳時記第四版 秋」(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


October 25102009

 一つぶの葡萄の甘さ死の重さ

                           稲垣 長

週に続いて葡萄の句です。先週の葡萄は手のひらに乗せられていましたが、今週の葡萄は、薄い皮をめくられ、静かに口の中に入れられています。思えば時代と共に、葡萄にも改良が重ねられてきたようで、わたしが子供の頃に食べたものは、粒も小さく、中には大きな種が入っていて、種の周りはひどくすっぱかった記憶があります。だから梨とか桃のように、全体がまるごと甘い果物ほどには、ひかれることはありませんでした。しかし今では、粒も見事に大きく、種もなく、どうだといわんばかりの見事な果物になりました。ここに描かれている「一つぶ」も、現代の見事な姿の葡萄なのでしょう。人として生れ出て、なすべきことはたくさんありますが、日々、ひたすらに食べ続けることが、比喩でもなんでもなく、そのまま生きていることの証になっています。だからなのでしょうか。球形の見事な形と、とても甘い味をした、命の美しさそのもののような葡萄を、生死の秤の片方に置いてみたくなる感覚は、よくわかります『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年10月19日付)所載。(松下育男)


October 26102009

 ペンダントの透明な赤秋惜しむ

                           伊関葉子

に見しょとて紅鉄漿(べにかね)つきょぞ……。唄の文句じゃないけれど、女性のお洒落は要するに異性を惹きつけるためなんだろう。学生時代、クラスの女性にづけづけと言ったら、たちどころに切り返された。それもある、否定はしない。でも、お洒落の最大の効用は、その時々の気持ちの表現手段になることであり、気分をコントロールできるることだ。つまり、ほとんどは自分のためなのよ。彼女の言外には、年中学生服で通しているカラスみたいなあんたには所詮わからないでしょうけどねと、そんなニュアンスがあった。言った当人はもうすっかり忘れているだろうが、私はいまだにちゃんと覚えている。社会人になってネクタイに凝ったりしたこともあり、そのときにも彼女の言を思い出していた。なかなかの名言だなと思う。回り道になったけれど、掲句のペンダントにしても気分のコントロールから、透明な赤を着けているのだろう。装身具によるお洒落は、必要不可欠というわけではないだけに、余計に気分に左右されるはずである。いろいろの色彩を考えてみたが、物寂しい晩秋には、やはり赤がいちばんしっくりとくるような気がする。それも、澄んだ大気に呼応する透明な赤色。着けていてときどき目の端に入るその色を意識すると、行く秋への思いもいちだんと深まってくるようだ。そして、句自体にも、この赤色が清潔な透明感を与えている。このところ気温もだいぶ低くなってきて、来週には暦の上の冬が控えている。まさに「秋惜しむ」の感。なお、さきほどの唄は「京鹿子娘道成寺」の一節。「みんな主への心中だて」とつづく。意味不明のまま、小学生の頃に覚えた。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


October 27102009

 末枯や子供心に日が暮れて

                           岸本尚毅

枯(うらがれ)とは、枝先、葉先から枯れはじめ、近寄る枯野を予感させる晩秋の景色である。盛りを過ぎた草木のあわれを訴える季題ではあるが、そこには日差しの明るみも潜んでいる。掲句を、子供心にも日暮れどきには感傷じみた思いになる、と読んだが、子供が意識する日暮れには「さみしさ」よりも、はっとする「焦り」の方が頻繁だったように思う。遊びに夢中で門限を過ぎていたとき、宿題をすっかり忘れていたとき、子供時代は他愛ないことで年中うろたえていた。子供にとっての一大事は、大人になった今思えば「そんなことで」と首をかしげるようなことばかりだが、そのたびにたしかに叱られてもいたのだから、大人も「そんなことで」叱ってばかりいたのである。そう思うと、掲句は単に日没への郷愁というより、「あーあ、どうしよう」という途方に暮れた感情が入り乱れているように思えてきた。末枯によって光と影が交錯し、全体に哀愁を含ませている。子供心の複雑さは、カッコわるいと思っていること(カッコいいと思っていることも)が大人と大いに違っている点にある。〈望なりし月すぐ欠けて秋深し〉〈ぽつかりと日当るところ水澄める〉『感謝』(2009)所収。(土肥あき子)


October 28102009

 月の出を待つえりもとをかき合せ

                           森田たま

の出を待つなどという風情も時間も、現実にはほとんど失われてしまったのかもしれない。いや、それでも俳人のあいだでは、月の出を待って競作しようとか、酒を楽しもうという情趣が残されているのかもしれない。えりもとをかき合わせる仕草も、舞台や高座ではしっかり生きている。今月初めにたまたま北欧のある町を歩いていて、街路から遠くにぽっかり浮かんでいる満月に気がついてビックリ。何の不思議もないわけだが、妙にうれしく感じられる月だった。思わずカメラを向けたのだが、他にその月に気づいている人はいないようだった。掲出句の御仁は、どんな状況で月の出を待っているのだろうか。えりもとを思わずかき合わせたのは、おそらくちょいとした緊張と寒さのせいだったものと思われる。それがどんな状況であれ、いかにもシックな女性らしい仕草ではないか。ふと気づいた月の出ではなく、月の出を今か今かと待っているのであり、出を待たれている月があるという、かすかで濃い時間がそこに刻まれている。えりもとをかき合わせるという仕草によって、さりげないお色気もここには漂っている。たまは多くの俳句を残しているが、月を詠んだ句に「はろばろと空の広さよ今日の月」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 29102009

 ブラジルは世界の田舎むかご飯

                           佐藤念腹

かごは自然薯のつるにつく小さな肉芽。指の先ほどの丸い実をご飯に炊き込むとむかご飯になる。虚子の「季寄せ」を何気なくめくっているうち、オリンピック開催で話題のブラジルとむかご飯との取り合わせに目がとまり、新鮮な驚きを感じた。新潟出身の念腹(ねんぷく)は1913年にブラジルへ移住した。戦前は長男が家督のすべてを継ぐ慣わしだったから農家の次男、三男は故郷を出て新天地を切り開くしかなかった。彼もまた大農家になることを夢見て「世界の田舎」であるブラジルへ人生を賭けて渡り、未開の原野を切り拓いていったのだろう。つましい食卓に出された芋はむかごなのか、むかごに似た現地の芋なのかはわからないが、ブラジルの「むかご飯」に日本への望郷の思いをかぶせている。彼の地で農業に俳句に力を尽くした念腹の地元新潟には掲句の句碑が建てられているそうだ。「虚子季寄せ」三省堂(1940)所載。(三宅やよい)


October 30102009

 集まりて老人ばかり子規祀る

                           深見けん二

人の平均年齢はなぜかくも高いのか。俳人は年寄りばかりで、年寄りになると「花鳥諷詠」が好きなると言って虚子門の人に叱られたことがある。老いて旧守に走るのを予定調和というのだろうか。花鳥諷詠が旧守だといえばまた異論はあることだろう。若い頃は前衛、老いて旧守。もしその逆があればそういう人間には興味が湧くのにと思う。同じ句集にこの句にならんで「新人と呼ばれし日あり獺祭忌」がある。こう詠まれると子規像が俄然青春の趣をもって迫ってくる。どの時代もそこに関わる人の志次第だとこれら二句が主張している。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)


October 31102009

 いゝぎりの実もて真赤な空ありぬ

                           飴山 実

桐(いいぎり)の実は秋季、来週はもう冬が立つ。そんな晩秋の一日、武蔵野市にある井の頭恩賜公園で吟行句会があった。武蔵野丘陵にある広い公園は、都心の芝離宮や小石川後楽園より少し冬に近い気がした。ざわざわと続く雑木林と散り敷く落ち葉、薄く黄葉したメタセコイヤの大木が続く先に、飯桐の木が一本。ひときわ赤い葡萄のような房状の、いかにも美味しそうな実を見上げながら、こんなに小鳥がいても残っているっていうのはあまり美味しくないのかしらね、などと言い合う。鮮やかな実はまさにたわわ、青空に映えていた。帰宅して掲出句を読み、ぱっと浮かんだのは空の青。飯桐の実がそこにあるから空が赤い、といっているだけなのだが、実の赤が広がっていればいるほど、その先の空は高く深く澄んでいる。見たままの風景をいったん心の中に刻んで、それらが語りかけてくる声に耳を澄ませながら、じっと言葉が生まれてくるのを待つ。そんなふうにして詠まれたのかもしれない、と思った。「新日本大歳時記 秋」(1999・講談社)所載。(今井肖子)




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