食うために働き休むために働くのか。働くために食い、かつ休むのか。(哲




2009ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1992009

 蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ

                           川端茅舎

蚓(みみず)は鳴かない、じーと聞こえるのは螻蛄(けら)などが鳴いているのだ、と言われる。だから、蚯蚓鳴く、というのは、要するにそんな気がする秋の感じなのだと。蚯蚓鳴く、が兼題になり、そんな感じと言われても困ったな、と虚子編歳時記を。すると、なにやら解説が異常に長い。いきなり「聲がよくなるといふので煎じてのむことも」とあり、うへ、と思いつつ読んでいくと「腹中泥ばかりの蚯蚓が鳴くともおもはれない」、やはりね。さらに読むと「蚯蚓とけらとを置きかへて見ても詮ないことであらう。すべての動物は皆それぞれの聲を持つてゐるのかもしれない」と続く。蝶も実は高音を発しているらしい、と述べながら、それらの音はヒトには聞きとることができないのだ、と書かれている。土の中で激しく動き回るという蚯蚓が、土中の闇の中で呼び合っているのかもしれない、と思うと、不思議な気持ちになる。茅舎も、自分の瞬きすらあやふやになるような真闇の中で、本来は聞こえるはずのない音無き音を肌で感じとったのだろうか。一字一字確認するような、しんのやみ。『虚子編 新歳時記』(1940・三省堂)所載。(今井肖子)


September 1892009

 満月に落葉を終る欅あり

                           大峯あきら

のように一本の欅が立つ。晩秋になり葉を落してついに最後の一枚まで落ち尽す。そこに葉を脱ぎ捨てた樹の安堵感が見える。氏は虚子門。虚子のいう極楽の文学とはこういう安堵感のことだ。落葉に寂寥を感じたり、老醜や老残を見たりするのは俳句的感性にあらず。俳句が短い詩形でテーマとするに適するのはやすらぎや温かさや希望であるということ。この句がやすらぎになる原点は満月。こういう句を見るとやっぱり俳句は季語、自然描写だねと言われているような気がする。さらにやすらぎを強調しようとすれば、次には神社仏閣が顔を出す。だんだん「個」の内面から俳句が遠ざかっていき、俳句はやすらぎゲームと化する。難しいところだ。『星雲』(2009)所収。(今井 聖)


September 1792009

 普段着で猫行く町の秋祭り

                           小西雅子

の間の日曜日犬を連れて公園へ散歩に出かけると、町は祭の最中だった。ああ、そういえば清水さんが増俳に祭りの撮影に行く予定。と書かれていたな、と思い出した。入り組んだ町の路地のあちこちには控所や休憩所らしきものが出来、お神酒や餅がふるまわれていた。髪を明るく染めた女の子が紺の法被にぴったりとした股引をつけきびきびと走り回っている。男も女も額には細く絞った日本手ぬぐいをきりりと巻いて、「いよっ、イナセだね」と声をかけたくなる雰囲気で、町全体が活気づいていた。うちの犬だけでなく、祭の町を連れられてゆく犬はきょろきょろあたりを見回して落ち着きがない。通りをゆく子供もおとなもどこか華やいだ表情をしている。猫は見かけなかったけど、人目を避けて塀沿いを伝い歩きしていたかもしれない。きっとわさわさした町にちろりと視線をくれたきり、素っ気ないようすで通り過ぎていったことだろう。秋祭に浮き立つ町でこころも身体も普段着のまま、過ごしていたのは猫と雀だったかもしれない。『雀食堂』(2009)所収。(三宅やよい)




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