加藤かな文の句

September 1592009

 案外と野分の空を鳥飛べり

                           加藤かな文

五の「案外と」に目を見張った。そう。どんなに激しい風のなかでも、そのあたりに身をひそめればよいようなものを、思いのほか平気で鳥は飛んでいる。どちらかというと、強風になぶられることを楽しんでいるようにさえ見える。上野の森で、羽の目指す方向とはまるきり別の方角へ流されているカラスを、飽きずに眺めていたことがある。カラスは鳴きながら飛んでいたが、なんとなくそれは「助けて〜」より、「見て見て〜」という気楽さがあった。掲句の「案外と」の発見で、鳥たちも家路を急いでいるのでは…、などという人間的な常識を離れ、わりと楽しんでいるのでは、という屈託ない見方ができたのではないか。翼を持つものだけの、秘密の楽しみは、まだまだほかにもあるように思う。〈わが影は人のかたちよ水澄んで〉〈とまりたきもの見つからず赤とんぼ〉『家』(2009)所収。(土肥あき子)


February 2322010

 仕事仕事梅に咲かれてしまひけり

                           加藤かな文

分だ八分だと大騒ぎの態の桜と違い、梅はいたって静かにほころびる。掲句は通勤途中のものか、あるいはもっと身近な庭の一本かもしれず、それほど梅はふっと咲くものだ。そろそろ冬のコートを脱ごうかと見回した視線でみつけたものか、ともかく「咲かれてしまった…」とつぶやく胸のうちは、自覚していた時間との落差が突如現れたような途方に暮れた感がある。まだ本年という年号にも馴染まぬうちに、もうすっかり春になろうとしているのだ。作者は四十代の男性。世にいう働き盛りの毎日は、小さな時間のブロックを乗り越えていくうちに、またたく間に月日が過ぎてしまうものである。そして、その無念さはどの花でもなく梅でこそ、ぽつんと取り残された心地が表現できたのだと思う。ちなみに都内では「せたがや梅まつり」は2/28、「湯島天神梅まつり」は3/8まで。清らかな梅の香りを楽しむ時間は、もう少し残されている。『家』(2009)所収。(土肥あき子)


March 2632012

 あの世めく満開の絵の種袋

                           加藤かな文

春のように花の種を買うけれど、ほとんど蒔いたことがない。ついつい蒔き時を逸してしまうのだ。だから我が家のあちこちには種袋が放ったらかしになっており、思いがけないときに出てきて、いささかうろたえることになる。それでも懲りずに買ってしまうのは、花の咲く様子を想像すると愉しいからだ。しかし、たしかにこの句にあるように、種袋に印刷された満開の絵(写真)は、自然の色合いから遠く離れたものが多い。はっきり言って、毒々しい。農家の子だったから、そんな種袋の誇張した絵には慣れているけれど、そう言われれば、あの世めいて感じられなくもない。種袋の絵のような花ばかりが咲き乱れているさまを思い描くと、美しさを通り越して、あざとすぎる色彩に胸が詰まりそうになる。もしもあの世の花がそんな具合なら、なんとか行かずにすむ手だてはないものかと考えたくなってしまった。「俳句」(2012年4月号)所載。(清水哲男)




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