「老人の日」(老人福祉法第五条)。偽善的な「敬老の日」よりマシだ。(哲




2009N915句(前日までの二句を含む)

September 1592009

 案外と野分の空を鳥飛べり

                           加藤かな文

五の「案外と」に目を見張った。そう。どんなに激しい風のなかでも、そのあたりに身をひそめればよいようなものを、思いのほか平気で鳥は飛んでいる。どちらかというと、強風になぶられることを楽しんでいるようにさえ見える。上野の森で、羽の目指す方向とはまるきり別の方角へ流されているカラスを、飽きずに眺めていたことがある。カラスは鳴きながら飛んでいたが、なんとなくそれは「助けて〜」より、「見て見て〜」という気楽さがあった。掲句の「案外と」の発見で、鳥たちも家路を急いでいるのでは…、などという人間的な常識を離れ、わりと楽しんでいるのでは、という屈託ない見方ができたのではないか。翼を持つものだけの、秘密の楽しみは、まだまだほかにもあるように思う。〈わが影は人のかたちよ水澄んで〉〈とまりたきもの見つからず赤とんぼ〉『家』(2009)所収。(土肥あき子)


September 1492009

 二十世紀ちふ梨や父とうに亡き

                           前田りう

葉県松戸市に住む少年が、裏庭のゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を偶然発見した。それが「二十世紀梨」で、1888年(明治21年)のことだったという。私が子供だったころ、友人とよく「二十一世紀になったら、この名前も変わるのかなあ」などとよく話題になった。しかし現在、名前の変更もなく二十世紀梨は依然として健在である。この句は「二十世紀ちふ梨」の「ちふ」に注目。「と言う」の意味で、発音は「tju:」だ。つまり会話体だ。似たような使われ方の「てふ」があるけれど、こちらは「tjo:」としか読めないから、ふだんの会話で使うことはない。あくまでも書き言葉である。いささか気取った言葉にも感じられ、当今流行の旧かなコスプレ・ファンが好んで使いそうな雰囲気も備えている。「ちふ」の「tju:」は、私の育った山陰地方などでは完全な日常用語だったが、これを女性が使うと、ちょっと伝法な物言いにも聞こえた。ましてや作者は東京在住なので、普通は「te.ju:」だろうから、これは意図的な「ちふ」だ。あるいは父上の口癖だったのかもしれないけれど、それでも女性が句に用いると伝法は伝法である。この伝法な言葉遣いがあるせいで、「とうに」父を亡くした作者の思いがいまさらのように濃密によみがえってくるようだ。この「ちふ」が「てふ」だと、凡句になってしまう。語感によほど敏感なひとでないと、こういう句は詠めないだろう。『がらんどうなるがらんだう』(2009)所収。(清水哲男)


September 1392009

 二科を見る石段は斜めにのぼる

                           加倉井秋を

語は「二科」、というか美術展覧会一般として秋の季語になっています。たしかに、涼やかな風に吹かれながら絵画を観賞しに行くには、秋が似合っています。かならずしも上野で開催されているわけでもないのでしょうが、斜めにのぼるという言葉から思いつくのは、西郷さんの銅像に行く途中の、京成線ちかくの広い階段です。あのあたりでは実際に絵を描いている人もおり、通りすがりに描きかけの絵を、覗いて見たくもなります。斜めにのぼったのはおそらく、その日、それほどに急いではいなかったからなのでしょう。二科展で絵を楽しむ時間だけでなく、行き帰りの歩行も、それなりに楽しみたかったからなのです。ちょっと子供っぽくもあるこんな動作を、休日にしてみたいと思ったのは、毎日急き立てられるように生きている反動でもあります。帰りにはおいしいコーヒーを飲んで、それからどうしようかと、次の石段に足を持ち上げながら、考えているのでしょうか。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)




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