ひところはどこの祭も廃れた。神輿も毀れたままだった。それが今では。(哲




2009ソスN9ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1492009

 二十世紀ちふ梨や父とうに亡き

                           前田りう

葉県松戸市に住む少年が、裏庭のゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を偶然発見した。それが「二十世紀梨」で、1888年(明治21年)のことだったという。私が子供だったころ、友人とよく「二十一世紀になったら、この名前も変わるのかなあ」などとよく話題になった。しかし現在、名前の変更もなく二十世紀梨は依然として健在である。この句は「二十世紀ちふ梨」の「ちふ」に注目。「と言う」の意味で、発音は「tju:」だ。つまり会話体だ。似たような使われ方の「てふ」があるけれど、こちらは「tjo:」としか読めないから、ふだんの会話で使うことはない。あくまでも書き言葉である。いささか気取った言葉にも感じられ、当今流行の旧かなコスプレ・ファンが好んで使いそうな雰囲気も備えている。「ちふ」の「tju:」は、私の育った山陰地方などでは完全な日常用語だったが、これを女性が使うと、ちょっと伝法な物言いにも聞こえた。ましてや作者は東京在住なので、普通は「te.ju:」だろうから、これは意図的な「ちふ」だ。あるいは父上の口癖だったのかもしれないけれど、それでも女性が句に用いると伝法は伝法である。この伝法な言葉遣いがあるせいで、「とうに」父を亡くした作者の思いがいまさらのように濃密によみがえってくるようだ。この「ちふ」が「てふ」だと、凡句になってしまう。語感によほど敏感なひとでないと、こういう句は詠めないだろう。『がらんどうなるがらんだう』(2009)所収。(清水哲男)


September 1392009

 二科を見る石段は斜めにのぼる

                           加倉井秋を

語は「二科」、というか美術展覧会一般として秋の季語になっています。たしかに、涼やかな風に吹かれながら絵画を観賞しに行くには、秋が似合っています。かならずしも上野で開催されているわけでもないのでしょうが、斜めにのぼるという言葉から思いつくのは、西郷さんの銅像に行く途中の、京成線ちかくの広い階段です。あのあたりでは実際に絵を描いている人もおり、通りすがりに描きかけの絵を、覗いて見たくもなります。斜めにのぼったのはおそらく、その日、それほどに急いではいなかったからなのでしょう。二科展で絵を楽しむ時間だけでなく、行き帰りの歩行も、それなりに楽しみたかったからなのです。ちょっと子供っぽくもあるこんな動作を、休日にしてみたいと思ったのは、毎日急き立てられるように生きている反動でもあります。帰りにはおいしいコーヒーを飲んで、それからどうしようかと、次の石段に足を持ち上げながら、考えているのでしょうか。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


September 1292009

 野分なか窓にはりつく三姉妹

                           蜂須賀花

に吹く暴風、台風の余波の疾風、というのが野分の本来の意味だが、『源氏物語』の野分の巻にも雨の描写が見られるといい、台風と同じように使われることもあるようだ。それでもやはり、野を分ける、というその言葉は、確実に風のイメージが強い。この句の場合、やはり風だけでなく雨も降っている台風のような状態なのだと思う。でも、台風の、台風や、とすると、激しい風雨というイメージが固定され、窓にはりついている子供達もどこか平凡な風景の中にはまってしまう。野分なか、というと、まず風の音がする。もしかしたらこれは夜で、はりついている窓の外は真っ暗なのかもしれない。さらわれてしまいそうな風音が闇の中に渦巻いて、時折雨を窓に強く打ちつける。恐い物見たさに近い心持ちで、窓から離れることのできない子供達。はりついているのがまた三姉妹なのが、事実なのだろうが、ほどよくかわいい。上智句会句集「すはゑ(漢字で木偏に若)」第7号所載。(今井肖子)




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