三鷹と吉祥寺の秋祭。朝から撮影に行く予定。神輿ではなく人を撮りに。(哲




2009ソスN9ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1392009

 二科を見る石段は斜めにのぼる

                           加倉井秋を

語は「二科」、というか美術展覧会一般として秋の季語になっています。たしかに、涼やかな風に吹かれながら絵画を観賞しに行くには、秋が似合っています。かならずしも上野で開催されているわけでもないのでしょうが、斜めにのぼるという言葉から思いつくのは、西郷さんの銅像に行く途中の、京成線ちかくの広い階段です。あのあたりでは実際に絵を描いている人もおり、通りすがりに描きかけの絵を、覗いて見たくもなります。斜めにのぼったのはおそらく、その日、それほどに急いではいなかったからなのでしょう。二科展で絵を楽しむ時間だけでなく、行き帰りの歩行も、それなりに楽しみたかったからなのです。ちょっと子供っぽくもあるこんな動作を、休日にしてみたいと思ったのは、毎日急き立てられるように生きている反動でもあります。帰りにはおいしいコーヒーを飲んで、それからどうしようかと、次の石段に足を持ち上げながら、考えているのでしょうか。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


September 1292009

 野分なか窓にはりつく三姉妹

                           蜂須賀花

に吹く暴風、台風の余波の疾風、というのが野分の本来の意味だが、『源氏物語』の野分の巻にも雨の描写が見られるといい、台風と同じように使われることもあるようだ。それでもやはり、野を分ける、というその言葉は、確実に風のイメージが強い。この句の場合、やはり風だけでなく雨も降っている台風のような状態なのだと思う。でも、台風の、台風や、とすると、激しい風雨というイメージが固定され、窓にはりついている子供達もどこか平凡な風景の中にはまってしまう。野分なか、というと、まず風の音がする。もしかしたらこれは夜で、はりついている窓の外は真っ暗なのかもしれない。さらわれてしまいそうな風音が闇の中に渦巻いて、時折雨を窓に強く打ちつける。恐い物見たさに近い心持ちで、窓から離れることのできない子供達。はりついているのがまた三姉妹なのが、事実なのだろうが、ほどよくかわいい。上智句会句集「すはゑ(漢字で木偏に若)」第7号所載。(今井肖子)


September 1192009

 校門をごろごろ閉ぢて秋の暮

                           本井 英

の句の魅力は一点「ごろごろ」である。秋の暮はもともとは秋季の終わりという意味だが、最近は秋の夕暮という意味に使う例が多いらしい。本井さんは季語の本意に詳しい方なので、前者の意味だと僕は思う。秋も終わりごろの朝の校門の風景。これを暮際だととると下校の指導のあとか、用務担当の仕事になる。やはり朝。登校してくる生徒の服装やら持ち物やらに眼を光らせたあと、教師がごろごろと門を閉じる。重い扉を全力で閉めながら、ときどき教師は「チクショー!」とでも叫び出したくなる。人を教えるという職業の嘘臭さ、いかがわしさ、また無力感が自らを振り返るとき思われる。この「ごろごろ」はそういう音だ。『八月』(2009)所収。(今井 聖)




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