最近社会的に影響の出る「うっかりミス」が多い。みんな疲れてるのか。(哲




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September 1292009

 野分なか窓にはりつく三姉妹

                           蜂須賀花

に吹く暴風、台風の余波の疾風、というのが野分の本来の意味だが、『源氏物語』の野分の巻にも雨の描写が見られるといい、台風と同じように使われることもあるようだ。それでもやはり、野を分ける、というその言葉は、確実に風のイメージが強い。この句の場合、やはり風だけでなく雨も降っている台風のような状態なのだと思う。でも、台風の、台風や、とすると、激しい風雨というイメージが固定され、窓にはりついている子供達もどこか平凡な風景の中にはまってしまう。野分なか、というと、まず風の音がする。もしかしたらこれは夜で、はりついている窓の外は真っ暗なのかもしれない。さらわれてしまいそうな風音が闇の中に渦巻いて、時折雨を窓に強く打ちつける。恐い物見たさに近い心持ちで、窓から離れることのできない子供達。はりついているのがまた三姉妹なのが、事実なのだろうが、ほどよくかわいい。上智句会句集「すはゑ(漢字で木偏に若)」第7号所載。(今井肖子)


September 1192009

 校門をごろごろ閉ぢて秋の暮

                           本井 英

の句の魅力は一点「ごろごろ」である。秋の暮はもともとは秋季の終わりという意味だが、最近は秋の夕暮という意味に使う例が多いらしい。本井さんは季語の本意に詳しい方なので、前者の意味だと僕は思う。秋も終わりごろの朝の校門の風景。これを暮際だととると下校の指導のあとか、用務担当の仕事になる。やはり朝。登校してくる生徒の服装やら持ち物やらに眼を光らせたあと、教師がごろごろと門を閉じる。重い扉を全力で閉めながら、ときどき教師は「チクショー!」とでも叫び出したくなる。人を教えるという職業の嘘臭さ、いかがわしさ、また無力感が自らを振り返るとき思われる。この「ごろごろ」はそういう音だ。『八月』(2009)所収。(今井 聖)


September 1092009

 吾亦紅百年だって待つのにな

                           室田洋子

石の『夢十夜』に「百年、私の墓の傍に座つて待つていて下さい。屹度逢ひに来ますから」と死に際の女が男に言い残すくだりがある。墓のそばで時間の経過もわからなくなるぐらい待ち続けた男のそばで真白な百合がぽっかり咲いたとき「百年はもう来てゐたんだな」と男は気づく。掲句はその場面をふまえて作られているように思う。漱石の夢では女は花になって帰ってきたが、吾亦紅になって愛しい人を待ちたいのは作者自身だろう。待っても、待っても二度と会えないことを知りながら、ああ、それでもあの人に会えるなら百年だって待つのにな、と逆説的に表現している。吾亦紅の花に派手さはないが、赤紫の小さな頭を風に揺らす様子がかわいらしい。子供っぽい口語口調で表現されているが、待っても来ない哀しさをこんな表現に転換できるのはあきらめを知ったおとなの感情だろう。秋の暮れまで野に咲き続ける吾亦紅が少しさびしい。『まひるの食卓』(2009)所収。(三宅やよい)




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