プロ野球審判員が厚生年金継続求めスト通告。CSどころじゃなくなるかも。(哲




2009ソスN9ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1092009

 吾亦紅百年だって待つのにな

                           室田洋子

石の『夢十夜』に「百年、私の墓の傍に座つて待つていて下さい。屹度逢ひに来ますから」と死に際の女が男に言い残すくだりがある。墓のそばで時間の経過もわからなくなるぐらい待ち続けた男のそばで真白な百合がぽっかり咲いたとき「百年はもう来てゐたんだな」と男は気づく。掲句はその場面をふまえて作られているように思う。漱石の夢では女は花になって帰ってきたが、吾亦紅になって愛しい人を待ちたいのは作者自身だろう。待っても、待っても二度と会えないことを知りながら、ああ、それでもあの人に会えるなら百年だって待つのにな、と逆説的に表現している。吾亦紅の花に派手さはないが、赤紫の小さな頭を風に揺らす様子がかわいらしい。子供っぽい口語口調で表現されているが、待っても来ない哀しさをこんな表現に転換できるのはあきらめを知ったおとなの感情だろう。秋の暮れまで野に咲き続ける吾亦紅が少しさびしい。『まひるの食卓』(2009)所収。(三宅やよい)


September 0992009

 窓に干す下着に路地の秋は棲む

                           大西信行

り気のないなかに、市民の小さなかけがえのない日常が切りとられている句である。路地を歩いていて、ふと目にしたさりげない光景であろう。秋の涼風に吹かれて心地良さそうに乾いてゆく下着、それが男物であろうと女物であろうと、その光景を想起しただけで、秋を受け入れて気持ちがさわやかに解き放たれてくるようにさえ感じられる。しかも、人通りの少ない路地で風に吹かれながら、下着が秋を独占していると考えれば微笑ましいではないか。人間臭い路地の秋が、きれいに洗濯されて干された下着に集約されて、秋が生き物のようにしばし棲んでいるととらえた。そんなところに思いがけず潜んでいる秋は、ことさら愛しいものに感じられてくる。小さくともこころ惹かれる秋である。信行は劇作家で、俳号は獏十(ばくと)。東京やなぎ句会発足時の十名のメンバーのひとり。(俳号通りの「博徒」でいらっしゃるとか…)他に「石垣の石は語らず年果つる」「心太むかしのままの路地の風」などがある。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)


September 0892009

 引掻いて洗ふ船底秋没日

                           山西雅子

日「かんかん虫」という言葉を初めて知った。ドック入りした船の腹に付いた錆や貝などををハンマーを使って落す港湾労働者のことを指すのだそうだ。「虫」という呼称に、作業の過酷さや貧しさが表れている。しかし、掲句の船はそれほど大きなものではなく、ひとりで世話ができるほどの丈であるように思う。中勘助の『鳥の物語』に若い海女と都人の悲恋を描く「鵜の話」がある。海女が海底の竜神に捕われ、ある日、なにかの拍子に肩ごしに背中へ手をやると指先がなにかに触れる。「それはまだ柔らかくはあるがまさしく出来かけの二、三枚の鱗だった」という記述は、いつ読んでもぞくっと身の毛のよだつ箇所である。異類の国に住み異類の食を取るようになるうちに、だんだん海のものへとなっていく。掲句の「引掻く」が、まるで船に付いた出来たての鱗のようにも思え、海に帰りたがる船を、陸の世界へと引き戻す作業に見えてくる。〈夜濯のもの吊る下の眠りかな〉〈反らしたる指を離れぬばつたかな〉『沙鴎』(2009)所収。(土肥あき子)




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