近くにパン工場がある。良い香り。が、ここでは売ってないのです。(哲




2009ソスN9ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0892009

 引掻いて洗ふ船底秋没日

                           山西雅子

日「かんかん虫」という言葉を初めて知った。ドック入りした船の腹に付いた錆や貝などををハンマーを使って落す港湾労働者のことを指すのだそうだ。「虫」という呼称に、作業の過酷さや貧しさが表れている。しかし、掲句の船はそれほど大きなものではなく、ひとりで世話ができるほどの丈であるように思う。中勘助の『鳥の物語』に若い海女と都人の悲恋を描く「鵜の話」がある。海女が海底の竜神に捕われ、ある日、なにかの拍子に肩ごしに背中へ手をやると指先がなにかに触れる。「それはまだ柔らかくはあるがまさしく出来かけの二、三枚の鱗だった」という記述は、いつ読んでもぞくっと身の毛のよだつ箇所である。異類の国に住み異類の食を取るようになるうちに、だんだん海のものへとなっていく。掲句の「引掻く」が、まるで船に付いた出来たての鱗のようにも思え、海に帰りたがる船を、陸の世界へと引き戻す作業に見えてくる。〈夜濯のもの吊る下の眠りかな〉〈反らしたる指を離れぬばつたかな〉『沙鴎』(2009)所収。(土肥あき子)


September 0792009

 ネクタイをはずせ九月の蝶がいる

                           坪内稔典

便宜上「秋の蝶」に分類しておく。が、九月の蝶はまだ元気だ。元気だが、私たちは蝶がやがて「秋の蝶」と言われる弱々しい存在になっていくことを知っているので、その元気さのなかに、ちらりと宿命の哀しさを嗅ぎ取ってしまう。このときに、例えれば作者もまた「九月の蝶」みたいな存在なのだ。だから、この句は作者自身への呼びかけである。「ネクタイをはずせ」と、自分自身に命令している。ネクタイは男の勤め人のいわば皮膚の一部みたいなものなので、日頃は職場ではずすことなど意識にものぼらない。それが、たまさかの蝶の出現でふと意識にのぼった。と言っても、はずせばただ解放された気分になってセイセイするというものでもないことを、作者は承知している。はずした先は、「秋の蝶」的な弱々しくも不安な気分にもなるであろうからだ。でも、あえて「はずせ」と言ってみる。自分はもはや、そうした年齢にさしかかってきた。はずせと誰に言われなくても、はずすときは確実に訪れてくる。自分の意志からではなく、社会の要請によってである。そんな哀しき現実の到来を前にして、みずからの意思でネクタイをはずしてみようかと、作者は蝶を目で追いながら、なお逡巡しているようにも思えるなと、ネクタイをはずして久しい私には受け取れた。『高三郎と出会った日』(2009)所収。(清水哲男)


September 0692009

 こほろぎのこの一徹の貌を見よ

                           山口青邨

かに動物というのは、人のように喜怒哀楽を顔の表情でいちいち表しません。わたしの場合、家に帰れば飼い犬が玄関まで大喜びで出迎えてくれますが、顔がニコニコしているわけではなく、ただ尻尾を小刻みに振り、体をゆすりながらこちらを見上げている様子から、そうと察するだけです。顔は常に普通。驚くほどにまじめです。つまらぬ冗談は通じないし、すべてが一貫しています。気分によってぶれない生き方が、まさに「一徹」な無表情によく現れています。句で詠まれているのはこおろぎ。どんな顔をしていたものやら、こまかいところまでは記憶していませんが、「一徹の貌」といわれれば、大きな目をしっかりと持った、動きのない顔の形を思い浮かべられます。単にこおろぎを詠んだ句ではありますが、どこか、日々の生き方を叱られているような気分になります。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)




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