阪神の試合のない日は朝起きてがっかりする。何でこうなったのか。(哲




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September 0792009

 ネクタイをはずせ九月の蝶がいる

                           坪内稔典

便宜上「秋の蝶」に分類しておく。が、九月の蝶はまだ元気だ。元気だが、私たちは蝶がやがて「秋の蝶」と言われる弱々しい存在になっていくことを知っているので、その元気さのなかに、ちらりと宿命の哀しさを嗅ぎ取ってしまう。このときに、例えれば作者もまた「九月の蝶」みたいな存在なのだ。だから、この句は作者自身への呼びかけである。「ネクタイをはずせ」と、自分自身に命令している。ネクタイは男の勤め人のいわば皮膚の一部みたいなものなので、日頃は職場ではずすことなど意識にものぼらない。それが、たまさかの蝶の出現でふと意識にのぼった。と言っても、はずせばただ解放された気分になってセイセイするというものでもないことを、作者は承知している。はずした先は、「秋の蝶」的な弱々しくも不安な気分にもなるであろうからだ。でも、あえて「はずせ」と言ってみる。自分はもはや、そうした年齢にさしかかってきた。はずせと誰に言われなくても、はずすときは確実に訪れてくる。自分の意志からではなく、社会の要請によってである。そんな哀しき現実の到来を前にして、みずからの意思でネクタイをはずしてみようかと、作者は蝶を目で追いながら、なお逡巡しているようにも思えるなと、ネクタイをはずして久しい私には受け取れた。『高三郎と出会った日』(2009)所収。(清水哲男)


September 0692009

 こほろぎのこの一徹の貌を見よ

                           山口青邨

かに動物というのは、人のように喜怒哀楽を顔の表情でいちいち表しません。わたしの場合、家に帰れば飼い犬が玄関まで大喜びで出迎えてくれますが、顔がニコニコしているわけではなく、ただ尻尾を小刻みに振り、体をゆすりながらこちらを見上げている様子から、そうと察するだけです。顔は常に普通。驚くほどにまじめです。つまらぬ冗談は通じないし、すべてが一貫しています。気分によってぶれない生き方が、まさに「一徹」な無表情によく現れています。句で詠まれているのはこおろぎ。どんな顔をしていたものやら、こまかいところまでは記憶していませんが、「一徹の貌」といわれれば、大きな目をしっかりと持った、動きのない顔の形を思い浮かべられます。単にこおろぎを詠んだ句ではありますが、どこか、日々の生き方を叱られているような気分になります。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


September 0592009

 食べ方のきれいな男焼秋刀魚

                           二瓶洋子

刀魚、と秋の文字が入っているが、今開いている歳時記の解説によれば、江戸時代には「魚中の下品(げぼん)」と言われ、季題にもされなかったという。子供の頃、七輪を裏庭に出して焼いていると、お約束のように近所の猫がやってきたが、やおら魚をくわえて逃げる、ということはなく、なんとなく一緒に焼けるのを待っていた。妹は特にそれこそ猫跨ぎ、頭と骨だけ矢印のように残して食べたが、そういえば父は食べ方があまりうまくなかったように思う。見るからに器用そうな指をしながら、不器用だからだろうか。魚はきれいに残さず食べる方がいいに違いないけれど、初めて一緒に魚を食べたら思いのほか下手なところが、なんだか好もしく思えたり、あまりに見事に残された骨を見て、その几帳面さがふといやになったり。この句の場合はやはり、食べている男も、食べられている秋刀魚のように、すっきりした男ぶりなのだろうか。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)




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