消費者庁家賃年間8億円。なぜ霞ヶ関でないと仕事ができないのか。(哲




2009ソスN9ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0392009

 天涯に鳥のかほある桔梗かな

                           高柳克弘

梗は五つに裂けた花びらを持つ青紫色のきりっとした姿の花。秋の深い空のはてを飛行する鳥の嘴を突きだした鋭い横顔はこの花弁のかたちと似通うところがある。鳥が空を渡る様は地上からうかがい知ることはできないが、本能の命じるままに飛び続けるその顔は真剣そのものだろう。眼前に咲く桔梗から天上を渡る鳥の横顔に連想が及ぶところが飛躍であり、その飛躍には端正な色の美しさと鋭い輪郭をイメージの共通項として含んでいる。「枯山に鳥突きあたる夢の後」という藤田湘子の句があるが、モノクロームを思わせる湘子の句では夢から覚めたあと夢の中を飛び続けていた鳥は枯山に突き当たって落下してしまうのかもしれないが、この句の鳥はひたすら紺碧の空を飛び続けるのではないか。そしてそのひたむきな飛行は青春の明るさより、終わりのない孤独を暗示しているようにも思えるのだ。『未踏』(2009)所収。(三宅やよい)


September 0292009

 稲妻や白き茶わんに白き飯

                           吉川英治

がみのる肝腎な時季に多いのが稲妻(稲光)である。「稲の夫(つま)」の意だと言われる。稲妻がまさか稲をみのらせるわけではあるまいが、雷が多い年は豊作だとも言われる。科学的根拠があるかどうかは詳らかにしない。しかし、稲妻・稲光・雷・雷鳴……これらは一般的に好かれるものではないが、地上では逃がれようがない。稲妻を色彩にたとえるならば、光だからやはり白だろうか。その白と茶わんの白、飯の白が執拗に三つ重ねになっている。しかも、そこには鋭い光の動きも加わっている。中七・下五にはあえて特別な技巧はなく、ありのままの描写だが、むしろ「白」のもつ飾らないありのままの輝きがパワーを発揮している。外では稲妻が盛んに走っているのかもしれないが、食卓では白い茶わんに白いご飯をよそってただ黙々と食べるだけ、という時間がそこにある。ようやく「白き飯」にありつけた戦後の一光景、とまで読みこむ必要はあるまい。特別に何事か構えることなく、しっかり詠いきっている句である。橋本多佳子のかの「いなびかり北よりすれば北を見る」は、あまりにもよく知られているけれど、永井荷風には「稲妻や世をすねて住む竹の奥」という、いかにもと納得できる句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0192009

 野の花を野にあるやうに挿しにけり

                           杉阪大和

月の声を聞くと、肌に触れる空気にはっきりと秋の存在を感じるようになる。掲句の季題「野の花」は、歳時記「秋草」の傍題に置かれる。同じようではあるが「草の花」よりずっと控えめな、花ともいえぬ花であるような印象を受ける。茶の世界では、千利休の残した七則に「花は野にあるように」と心得があるが、掲句はその教えに沿って茶室に茶花を飾ったということではなく、おそらく野にある花を摘んできてしまった、わずかな後悔がさせた行為であろう。都会のなかで、あらためて手のなかに見る花の姿に、はっとしたのではないか。手折った花へのせめてもの償いとして、野に咲いていた可憐なおもむきを残すように挿しおいた、という作者の純情が静かな寂しさとともに立ち表れてくる。そして、利休の考えた茶室に再現させる自然の景のなかにも、作者が感じた申し訳なさという思いが込められてこそ、「侘び」の心が生まれるのかもしれない、と今さらながら気づいたのだった。『遠蛙』(2009)所収。(土肥あき子)




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