リーダーズダイジェスト破綻。一行ごとにウラを取るシビアな編集方針。(哲




2009ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2682009

 髪を梳く鏡の中の秋となる

                           入船亭扇橋

を梳いている人物は女性であろう。男性である可能性もなくはないが、それでは面白くもおかしくもない。女性でありたい。外はもう秋なのだろうけれど、鏡に見入りながら髪を梳く女性が、今さらのように鏡の中に秋の気配を発見してハッとている驚きがある。いや、鏡の前で乱れた髪を梳いている女性を、後方からそっと覗いている男性が、鏡の中に秋を発見してハッとしているのかもしれない。そのほうが句に色っぽさが加わる。「となる」が動きと驚きを表現している。他にも類想がありそうな設定だが、いつも飄々とした中にうっすらとした色気が漂う高座の扇橋の句として、味わい深いものがある。この人の俳句のキャリアについてはくり返すまでもない。曰く「言いたいことが山ほどあっても、こらえて、こらえて詠む。いわば、我慢の文学。これが俳句の魅力」と語る。この言葉は落語にも通じるように思われる。落語も言いたいことをパアパアしゃべくって、ただ笑いを取ればいいというものではない。「手を揃へ初夏よそほひし若女将」の句もある。扇橋の高座では特に「茄子娘」「弥次郎」などは、何回聴いても飽きることがない。扇橋が当初から宗匠をつとめ、面々が毎月マジメに俳句と戯れる「東京やなぎ句会」は、今年一月になんと四十周年を迎えた。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)


August 2582009

 抱きしめて浮輪の空気抜きにけり

                           山下由理子

休みもそろそろ数えるほどになってきた。小学生時代は、夏休みの間中、子ども部屋の隅にふくらんだままの浮き輪が転がっていたように覚えている。あるいは、使用する都度ふくらまし、遊び終わったら空気を抜き出し入れする几帳面な家庭もあったかと思うが、プールや川に行こうと呼ばれれば、すぐに浮き輪を腰に装着して駆けて行ったのだから、わが家はかなり野放図派であったようだ。ひと夏、息を足しながら使う浮き輪の空気を完全に抜くときは、夏休みの宿題に迫られたこの時期。今年もそろそろ座敷の隅で夏休みを越した浮輪が目障りになってくる頃だろう。ひとたび栓を解き、抱きしめればひと夏の空気が勢いよく噴出し、次第にくたりとなった浮き輪をさらに二つ折りにしたり四つ折りにしたりと、楽しい思い出を畳み込むようにしてぺちゃんこにしていく。安定しない陽気が続き、今年はあまり活躍の場のなかった浮き輪かもしれないが、来年の楽しい夏までしばらくのお別れである。やけに広々と感じられる子ども部屋に、秋の気配が入り込む。『野の花』(2007)所収。(土肥あき子)


August 2482009

 惜しい惜しい惜しい惜しいと法師蝉

                           北 登猛

るほど、法師蝉の鳴き声はそんなふうにも聞こえる。最後は「惜しいよおっ」と駄目押しするようにして飛び去ってゆく。何がそんなに惜しいのか。作者ならずとも、だれにだって「惜しい」ことがらの一つや二つはあるのだから、それぞれの「惜しい」思いで聞くことになる。このように虫や鳥の鳴き声を人間の言葉のように聞くことを「聞きなし」と言うが、有名な例ではウグイスの鳴き声を「法華経」、ホトトギスのそれを「特許許可局」「テッペンカケタカ」などがある。Wikipediaによれば、この「聞きなし」という用語を初めて用いたのは、鳥類研究家の川口孫治郎の著書『飛騨の鳥』(1921年)と『続 飛騨の鳥』(1922年)とされているそうだ。そんなに昔のことじゃない。なかなかにオツなネーミングだと思う。句に戻れば、「惜しい」が四度も繰り返されており、このしつこさがまた残暑厳しき折りの風情を伝えていて秀抜である。今日もまた各地で「惜しい」の連発が聞こえるだろう。あと一週間経って、選挙後に身に沁みて聞きなす候補者もいるだろう。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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