うっかりしたことを書くと公選法違反になる。選挙がそんなに偉いのか。(哲




2009ソスN8ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2382009

 あかえひの尾になる町は鶉かな

                           水間沾徳

かえひは、魚へんに噴の口のない字を書きますが、あいにくここでは表示できません。エイというのですから、扁平、幅広、菱形の、あの独特な形をした魚なのでしょう。その姿を見るにつけ、生き物というのはよくもまあ、可能な限りいろんな形になったものかなと、自分の形を棚に上げて、思いもするわけです。この句に惹かれたのは、「尾になる町」のところでした。『日本名句集成』には、「エイの尾のような町外れになると、深草が繁茂して鶉(うづら)が鳴く」という解説があります。では、「エイの尾のような」というのはどのようなものかと読んでゆくと、「一本道しかない郊外のこと」とあります。つまり郊外の小さな道の、ひなびた様子を、鶉の鳴き声とともに感慨深く詠っているのです。なるほどエイの尾というのは、鞭のように長く一本伸びているのだなと、形状は理解するものの、あれを郊外の一本道に例える想像力に、江戸期の俳人の、今とは違った発想の仕方に驚かされます。とはいうものの、自然の生き物が今よりも身近にうごめいていた当時にあっては、この比喩はそれほどの驚きではなかったのかもしれません。時とともに、句の読まれ方は変わってゆくのは当然のことですが、まさか沾徳(せんとく)も、自分の句が将来PCで、こんな解説が書かれるようになるとは思ってもいなかったでしょう。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


August 2282009

 裂ける音すこし混じりて西瓜切る

                           齋藤朝比古

つかしい音がする句。今は、大きい西瓜を囲んで、さあ切るよ、ということもほとんどなくなった。母が無類の西瓜好きなので、子供の頃は夏休み中ずっと西瓜を食べていた気がする。西瓜を切った時、この裂ける音の微妙な混ざり具合で、熟れ具合がわかる。まさに、すこし裂ける音も混じりながら、包丁の手応えがある程度しっかりあると、みずみずしくて美味しい。逆に、手応え少なく裂けるものは、ちょっとアワアワになっていて残念なのだった。忘れかけていた感触を思い出しながら、西瓜が食べたくなる。この句は、美味しそうな句が並ぶ「クヒシンバウ」と題された連作中の一句。その中に〈鰻屋の階段軋む涼しさよ〉という句があり惹かれていた。涼しは夏季だが、使いやすいので私もつい安易に使ってしまう。先日参加した吟行句会でも、涼風に始まって、汗涼し、露涼し、会涼し、そして笑顔まで涼し。しかし、涼し、は本来暑さの中にふと感じるもの。炎天下、鰻屋に入りふうと一息、黒光りする階段をのぼりつつ、こんな風に感じるものだろうなと。それにしても、これまた鰻のいい匂いがしてきて食べたくなるのだった。「俳句 唐変木」(2008年4号)所載。(今井肖子)


August 2182009

 鰯雲「馬鹿」も畑の餉に居たり

                           飯田龍太

でいう知的障害の人を地域がごく自然なあり方で支え共に生きていく。長い間、田舎で暮らした僕には思い当たる風景はいくつもある。畑の餉は昼餉のことだろう。老いも若きも赤ん坊も誰も彼もみんな大地の上で昼餉をとっている。ここにも飯田龍太という俳人のあるがままの肯定すなわち無名の肯定が生きている。馬鹿という言葉はすぐ喩えにとぶ。そうならぬように作者はかぎ括弧でくくった。言葉のイメージが広がって独り歩きせぬように意味を閉じ込めたのだ。『百戸の谿』(1954)所収。(今井 聖)




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