日の出が遅くなってきた。東京では5時過ぎ。法師蝉の鳴き声しきり。(哲




2009ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982009

 古書店の影さまざまに秋めきぬ

                           佐藤和歌子

の上ではもう秋だとは言え、まだまだ残暑は厳しい。しかし、何かの拍子にひょっとして、それとなく秋の気配がしっかり感じられることがある。「春めく」にしても「秋めく」にしても、じつに曖昧で主観的な感性が日本独特の季節感を表現し、古典詩歌を繊細に豊かにしてきたと言える。掲出句が出された句会では「古書店の影って曖昧ですよ」という声もあがったようだが、私に言わせれば、「古書店」だからこそ「影さまざま」が生きていると思われる。古書店というものには、それぞれの店構えもさることながら、古書店内独特の匂いやさまざまな書物の気配などがあって、みな個性をにじませている。いや、独自性を毅然と誇示しているようにさえ感じられる。神保町の古書店街あたりだろうか。秋の弱い日差しや秋風を受けはじめた店がもつ影にも、それぞれ別々のニュアンスが感じられるのも秋なればこそ。「影」こそがこの句のポイントである。直接的には建物としての店の影であろうが、形而上的な意味合いも十分に含まれていると読みたい。作者は同じ兼題で「秋めくや母はルージュを濃くしたり」という、女性らしいモチベーションをもった句も同時に作っている。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 1882009

 台風の目の中にあるプリンかな

                           蔵前幸子

象情報などで日本列島を鳥瞰する映像を見ると、なるほど台風の目とはよく言ったもの、という具合のつぶらな中心がある。災害であるから、つぶらなどという言葉は適切ではないが、「大型で強い」「超大型で非常に強い」などの形容にも、台風に対してまるで命あるもののように思わせる力がある。台風の踏み荒らす進路がこういくか、はたまたああいくかと、地図上の経路線は入り組み、しかし渦巻きは、いかに気象衛星を飛ばそうが、科学が発達しようが百年前とまるで変わらない気ままさで動き回る。予想図があるために天災でありながら、地震や噴火などの畏怖とは若干異なり、大きくて荒っぽい神さまのお通りのように思えるのかもしれない。現代では雨戸を打ち付けたり、蝋燭の準備をしたりすることもなくなったが、あの「いよいよ来る」というハラハラと高ぶる気持ちは忘れがたい。台風の目の中は、もうしばらくしたら必ずまた来訪される「ひとつ目」の神さまのご機嫌を予感しながらの、束の間の平安である。ふるふると震えるプリンのてっぺんに乗るカラメルの茶色が、怖れず天を睨み返す目玉のように見えてくる。『さっちゃん』(2009)所収。(土肥あき子)


August 1782009

 ジャンケンの無口な石が夕焼ける

                           西本 愛

焼けの情感を描いて、革新的な句だ。大正期の有名な童謡に「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら 日が沈む」ではじまる「夕日」(葛原しげる作詞)がある。この歌を紹介する絵本などの絵の構図は、例外なく大夕焼けをバックにして遊ぶ子供たちの小さなシルエットが浮かんでいるというものである。歌詞の内容がそうなのだから、そのように描いてあるとも言えるのだけれど、この構図が示しているのは、もっと深いところで私たち日本人の美意識につながっているそれなのだと思う。大自然の前の点景としての人間は、自然の永遠性と人間存在のはかなさを物語っているのであり、この構図を受け入れるときに、束の間にせよ、私たちの情感は安定する。島崎藤村ではないが、「この命なにをあくせく」と、自然に拝跪する心が生まれてくる。掲句を革新的と言うのは、句がそのような予定調和的な情緒安定感を意識的に破ろうとしているからだ。子供らのシルエットをぐいっと精度の高い望遠レンズでたぐり寄せたような構図が、作者の従来の情緒に落ちない意思を明示している。ここで昔ながらの美の遠近法はいわば逆転しているわけで、人間中心の美意識が芽生えている。と、ここまではひとつの理屈にすぎないけれど、たかが「ジャンケンの石」に夕焼けを反映させてみせただけで、いままでには無かった夕焼けの情感が生まれていることに、私は覚醒させられたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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