東京上空を友軍機が無規律に乱舞。敗戦前日の異常な光景を覚えている。(哲




2009N814句(前日までの二句を含む)

August 1482009

 見られゐて種出しにくき西瓜かな

                           稲畑汀子

かるなあ。西瓜にかぶりついて、ぺっぺと口から種を吐く人。なんとなくあれが西瓜を食べる作法かと思っているが、どうにもそれがうまくできない。技術的に無理なのだが、その風情にもなじめない。フォークで種をほじって出してからかぶりつくが、どうも見た目が悪いし、かぶりついた中にまだ種が残っているとそれはそれで口から吐かねばならない。これもみっともない。先日中国人の友達に、食事中になんでも床に捨てる中国式のマナーにクレームをつけたら、日本人は蕎麦を食うときどうしてあんなに汚い音を平気で立てるのかと逆襲された。食の作法もさまざまである。花鳥諷詠は、作者の「私」が作品に現れないことが多い。また現れないことをもってしてよしとする傾向にあるが、この句は「私」がちゃんと出ている。『ホトトギス季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)


August 1382009

 朝顔の顔でふりむくブルドッグ

                           こしのゆみこ

初に読んだとき心にどんときて、それでいてその良さを説明しがたい句というのがあるけど、この句もそうだ。朝顔と顔のリフレインが軽快だけど、「朝顔の」でいったん小休止を置いて読んだ。チワワやプードルのように軽快な動きができずに、大きな顔でぐいっと身体ごと振り向く動作の重いブルドッグと爽やかにひらく朝顔は質感といい、形といいなんら繋がりはない。にもかかわらず「顔」で響き合うこの取り合わせはどこかおかしい。いかめしいブルドッグの顔のまわりにひらひらフリルがついて大きな朝顔になってしまいそうだ。ブルドッグもこのごろは小型化してフレンチブルドッグを連れている人はよく見るけれど、頬が垂れて足の短い大型のブルドッグはほとんど見かけない。ダックスフンドといいコリーといい家のサイズに合わせて小型化する時代なのだろうか。そのむかし、ブルドッグは追っかけられると怖い犬の代名詞だったように思う。そう言えば、ポパイの天敵ブルートもごついブルドッグを連れていたっけ。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)


August 1282009

 群集の顎吊り上げし花火かな

                           仲畑貴志

の夜を彩って、日本各地であげられていた花火も一段落といった時季。これまでの幾歳月、じつに多くの土地でさまざまな花火を見てきた。闇が深くなる花火会場に押し寄せてくるあの大群集は、異様と言えば異様な光景である。花火があがるたびに、飽きもせずひたすら夜空を見あげる顔顔顔顔。その視線や歓声ではなく、掲出句ではあがる花火につり上げられるがごとき人々の顎に、フォーカスしている。そこにこの句のユニークな味わいがある。視点を少々ずらした発見。たわいもなく顎を吊り上げられてしまうかのような群集の様子は、ユーモラスでさえある。花火があがるたびに、夜空へいっせいに吊り上げられてゆく顎顎顎顎。老若男女それぞれの顎顎顎顎。絵師・写楽なら、表情のアップをどのような絵に描いてくれただろうか、と妄想してみたくなる。張子の玉が勢いよく夜空へ上昇して行くにしたがって、群集の顎たちも同時に吊り上げられて行き、空中で開いたり、しだれたりするさまを、目ではなく顎そのものでとらえているのである。コピーライターである貴志には「日向ぼこ神に抱かれているごとく」という句もある。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)




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