「18歳成人」に賛成ですか。昔から、私は逆に「25歳成人」説。(哲




2009N731句(前日までの二句を含む)

July 3172009

 残暑とはショートパンツの老人よ

                           星野立子

人にステテコは当たり前だが、ショートパンツとはさすがに客観写生の優等生である。ショートパンツの老人は現在の「花鳥諷詠派」の人たちでは出てこない表現だろう。古い情緒に適合しないからだ。俳句的情緒からいくと老人には着物つまり羅や白地。下着ならステテコや褌と取り合わせる俳人が多い。褌は「たふさぎ」などと古い読みを出してきて俳諧を気取る風潮もある。こんなのはみんな古い風流感の上に乗った陳腐なダンディズムだ。ショートパンツから皺だらけのやつれた肢が出ている。なんともみっともないこの肢こそが残暑の象徴だと作者は言っている。虚子は娘立子の素直さ、屈託の無さを最大限に評価した。意地悪な僕は女性の「育ちの良さ」ポーズや「屈託の無さ」仕種を簡単には信じないが、こんな句を見ると虚子の評価を肯わざるを得ない。『実生』(1957)所収。(今井 聖)


July 3072009

 水中に母の隠れ家真桑瓜

                           磯貝碧蹄館

舎の裏庭の噴井戸に大きな真桑瓜がごろんと沈められているのだろう。冷蔵庫ではなく片蔭に置かれた盥や噴井に冷やされているスイカや瓜は懐かしく記憶に残る光景である。「隠れ家」という秘密の匂いのする言葉と真桑瓜が響きあって、とてもいい雰囲気だ。オール電化された今の家では家事も早々に終わってしまうけど、昔の母は忙しかった。子供達には夏休みがあるけれど、日常の家事に休みはない。朝から晩まで家族のために台所や畑で、忙しく立ち働く母親を大変だなぁと見ていたのだろう。ゆっくり休む時間も場所もないお母さんのために逃げ場所を作ってあげたいと願う心が涼しげな水中の真桑瓜に母の隠れ家を想像したのかもしれない。そう思うとしんとした水に沈んでいるうすみどり色の真桑瓜の影に小さな母が身体を伸ばして休んでいる様子が絵本の一場面のように浮かんできて楽しい。『磯貝碧蹄館集』(1981)所収。(三宅やよい)


July 2972009

 夏の月路地裏に匂うわが昭和

                           斎藤 環

は本来秋の季語だが、季節を少々早めた「夏の月」には、秋とはちがった風情を思わせるものがある。しかも路地裏で見あげる月である。一日の強い日差しが消えて、ようやく涼しさが多少戻ってきている。しかし、まだ暑熱がうっすらと残っている宵の路地だろうか。「わが昭和」という下五の決め方はどこやら、あやうい「くせもの」といった観なきにしもあらずだが、ホッとして気持ちは迷わず昭和へと遡っている。大胆と言えば大胆。「路地裏」と「わが昭和」をならべると、ある種のセンチメンタリズムが見えてくるし、道具立てがそろいすぎの観も否めないけれど、まあ、よろしいではないか。こんなに味気なくなった平成の御代にあって、路地裏にはまだ、よき昭和の気配がちゃんと残っていたりするし、人の心が濃く匂っていたりする。そこをキャッチした。同じ作者には「大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ」という句もある。同じ昭和を詠んでいながら、表情はがらりとちがう。作者は1961年生まれの精神科医。そう言えば、久保田万太郎に「夏の月いま上りたるばかりかな」という傑作があった。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます