梅雨明け十日と言いますから、しばらくは真夏の空が広がりそうです。(哲




2009ソスN7ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1572009

 炎天や裏町通る薬売

                           寺田寅彦

句に限らない、「炎天」という文字を目にしただけでも、暑さが苦手な人はたちまち顔を歪めてしまうだろう。梅雨が明けてからの本格的な夏の、あのカンカン照りはたまったものではない。商売とはいえ暑さに負けじと行商してあるく薬売りも、さすがに炎天では、自然に足が日当りの少ない裏町のほうへ向いてしまう。そこには涼しい風が、日陰をぬって多少なりとも走っているかもしれないが、商売に適した道筋ではあるまい。炎天下では商売も二の次ぎにならざるを得ないか。寅彦らしい着眼である。行商してあるく薬売りは、江戸の中期から始まったと言われている。私などが子どものころに経験したのは、家庭に薬箱ごと預けておいて年に一回か二回やってくる富山の薬売りだった。子どもには薬よりも、おみやげにくれる紙風船のほうが楽しみだった。温暖化によって炎天は激化しているが、「裏町」も「薬売」も大きく様変わりしているご時世である。炎天と言えば橋本多佳子の句「炎天の梯子昏きにかつぎ入る」も忘れがたい。『俳句と地球物理学』(1997)所収。(八木忠栄)


July 1472009

 黒猫は黒のかたまり麦の秋

                           坪内稔典

の秋とは、秋の麦のことではなく、ものの実る秋のように麦が黄金色になる夏の時期を呼ぶのだから、俳句の言葉はややこしい。麦の収穫は梅雨入り前に行わなければならないこともあり、関東地域では6月上旬あたりだが、北海道ではちょうど今頃が、地平線まで続く一面の麦畑が黄金色となって、軽やかな音を立てていることだろう。掲句の「黒のかたまり」とは、まさしく漆黒の猫そのものの形容であろう。猫の約束でもあるような、しなやかな肢体のなかでも、もっとも流麗な黒ずくめの猫に、麦の秋を取り合せることで、唯一の色彩である金色の瞳を思わせている。また、同句集には他にも〈ふきげんというかたまりの冬の犀〉〈カバというかたまりがおり十二月〉〈七月の水のかたまりだろうカバ〉などが登場する。かたまりとは、ものごとの集合体をあらわすと同時に、「欲望のかたまり」や「誠実のかたまり」など、性質の極端な状態にも使用される。かたまりこそ、何かであることの存在の証明なのだ。かたまり句の一群は「そして、お前は何のかたまりなのか」と、静かに問われているようにも思える。『水のかたまり』(2009)所収。(土肥あき子)


July 1372009

 雨宿りのやうに棲む人日々草

                           北野紙鳥

の人はどんな人なのか。何をしている人なのだろう。と、想像をかき立てられる。「雨宿り」は不意の雨から一時避難することだから、この人もそのように棲んでいるわけだ。傍目には、かなり落ち着かない生活をしている人のように思える。職業柄だろうか、雨の降る日は家でじっとしているが、それ以外の日は日曜日だろうと祝日だろうと、どこかに出かけていく。あるいは出かけたかと思うと、間もなく戻ってきて、またそそくさと出かけていったりするのかもしれない。またもっと平凡に考えれば、住居は完全に寝るためだけの場所と心得ていて、ほとんど家にはいない人とも解せる。いずれにせよ、この人は家でくつろいだりする時間を全く持っていないようなのである。そのあたり、他人事ながら作者には気掛かりで、その人の家の前を通りかかると、ついつい主がいるのかどうかを確認したくなってしまう。そして今日、その人の庭に日々草が可憐に咲いているのに気がついた。可憐ではあるが、その家の主と同様に、この花はその名の通りに日々咲き変わる花でせわしない。思わず微笑すると同時に、作者は花を育てる心を持った家の主の優しい心根に触れたような気がして、ほっとした気分になったのでもあった。そして、一読者である私もまた……。俳誌「梟」(2009年7月号)所載。(清水哲男)




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