さあ、今日の永田町のセンセイ方は忙しいぞ。麻生太郎の決断や如何に。(哲




2009N713句(前日までの二句を含む)

July 1372009

 雨宿りのやうに棲む人日々草

                           北野紙鳥

の人はどんな人なのか。何をしている人なのだろう。と、想像をかき立てられる。「雨宿り」は不意の雨から一時避難することだから、この人もそのように棲んでいるわけだ。傍目には、かなり落ち着かない生活をしている人のように思える。職業柄だろうか、雨の降る日は家でじっとしているが、それ以外の日は日曜日だろうと祝日だろうと、どこかに出かけていく。あるいは出かけたかと思うと、間もなく戻ってきて、またそそくさと出かけていったりするのかもしれない。またもっと平凡に考えれば、住居は完全に寝るためだけの場所と心得ていて、ほとんど家にはいない人とも解せる。いずれにせよ、この人は家でくつろいだりする時間を全く持っていないようなのである。そのあたり、他人事ながら作者には気掛かりで、その人の家の前を通りかかると、ついつい主がいるのかどうかを確認したくなってしまう。そして今日、その人の庭に日々草が可憐に咲いているのに気がついた。可憐ではあるが、その家の主と同様に、この花はその名の通りに日々咲き変わる花でせわしない。思わず微笑すると同時に、作者は花を育てる心を持った家の主の優しい心根に触れたような気がして、ほっとした気分になったのでもあった。そして、一読者である私もまた……。俳誌「梟」(2009年7月号)所載。(清水哲男)


July 1272009

 西瓜切るザックリと父がいる

                           西澤幸佑

者がこの句を詠んだのは、中学1年生のとき。全国の学生から公募して作った句集の中の一句です。この本には、どのページにも、子供らしくまっすぐなまなざしの、まさに子供に詠んでもらいたいと大人が願っているような句が並んでいます。というよりも、個性にたどり着く前の、やわらかで、表現の水に浅く手を浸したような句、とでも言ったらよいのでしょうか。その中でも、本日の句に目が留まったのは、ちょうど昨夜、わたしがこの夏初めての西瓜を食べたからなのかもしれません。硬くもないものに包丁を入れ、手ごたえのなさを感じながら刃物を進めてゆく感触が、「ザックリ」の一語によくあらわされています。「ザックリ」と西瓜を切っているのは、いつもは仕事に追われてめったに家にいない父親だったのでしょうか。父親がたまに家にいることで、どっしりと家庭の幸せに重みがついたのか、あるいは大きな図体を単にうっとうしく感じられているのか。たぶん両方の意味での、うれしい「ザックリ」のようです。『ことばにのせて』(2008・ブロンズ゙新社)所載。(松下育男)


July 1172009

 駆け足のはづみに蛇を飛び越えし

                           岩淵喜代子

元の『台湾歳時記』(2003・黄霊之著)。「蛇」は、「長い物」という季語として立っている。傍題は「長い奴」。その解説曰く「蛇の噂をする時、『長い物』と呼び『蛇』とはよばない。蛇が呼ばれたと思い、のこのこ出てくるからだ」。どこの国でも、あまり好かれてはいないらしい。最近蛇を見たのは、とある公園の池、悠々と泳いでいた。それは青白い細めの蛇だったが、子供の頃はしょっちゅう青大将に出くわした。まさに、出くわす、という表現がピッタリで、歩いていると、がさがさと出てきてくねくねっと眼前を横切るが、けっこう素速い。掲出句、走っているのは少女の頃の作者なのか。のんびり歩いていたら、ただ立ちすくむところだが、こちらもそうとうなスピードで走っていて、出会い頭の瞬間、もう少しで踏みそうになりながら勢いで飛び越える。説明とならず一瞬のできごとを鮮やかに切り取っている。子供はそのまま走り去り、蛇は再び草むらへ。あとにはただ炎天下の一本道が白く続く。『嘘のやう影のやう』(2007)所収。(今井肖子)




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