都議選投票日。今回は議会勢力大変動の可能性もあるので、興味津々だ。(哲




2009年7月12日の句(前日までの二句を含む)

July 1272009

 西瓜切るザックリと父がいる

                           西澤幸佑

者がこの句を詠んだのは、中学1年生のとき。全国の学生から公募して作った句集の中の一句です。この本には、どのページにも、子供らしくまっすぐなまなざしの、まさに子供に詠んでもらいたいと大人が願っているような句が並んでいます。というよりも、個性にたどり着く前の、やわらかで、表現の水に浅く手を浸したような句、とでも言ったらよいのでしょうか。その中でも、本日の句に目が留まったのは、ちょうど昨夜、わたしがこの夏初めての西瓜を食べたからなのかもしれません。硬くもないものに包丁を入れ、手ごたえのなさを感じながら刃物を進めてゆく感触が、「ザックリ」の一語によくあらわされています。「ザックリ」と西瓜を切っているのは、いつもは仕事に追われてめったに家にいない父親だったのでしょうか。父親がたまに家にいることで、どっしりと家庭の幸せに重みがついたのか、あるいは大きな図体を単にうっとうしく感じられているのか。たぶん両方の意味での、うれしい「ザックリ」のようです。『ことばにのせて』(2008・ブロンズ゙新社)所載。(松下育男)


July 1172009

 駆け足のはづみに蛇を飛び越えし

                           岩淵喜代子

元の『台湾歳時記』(2003・黄霊之著)。「蛇」は、「長い物」という季語として立っている。傍題は「長い奴」。その解説曰く「蛇の噂をする時、『長い物』と呼び『蛇』とはよばない。蛇が呼ばれたと思い、のこのこ出てくるからだ」。どこの国でも、あまり好かれてはいないらしい。最近蛇を見たのは、とある公園の池、悠々と泳いでいた。それは青白い細めの蛇だったが、子供の頃はしょっちゅう青大将に出くわした。まさに、出くわす、という表現がピッタリで、歩いていると、がさがさと出てきてくねくねっと眼前を横切るが、けっこう素速い。掲出句、走っているのは少女の頃の作者なのか。のんびり歩いていたら、ただ立ちすくむところだが、こちらもそうとうなスピードで走っていて、出会い頭の瞬間、もう少しで踏みそうになりながら勢いで飛び越える。説明とならず一瞬のできごとを鮮やかに切り取っている。子供はそのまま走り去り、蛇は再び草むらへ。あとにはただ炎天下の一本道が白く続く。『嘘のやう影のやう』(2007)所収。(今井肖子)


July 1072009

 もう何もするなと死出の薔薇持たす

                           平畑静塔

書に「三鬼の死に」とある。確かにこういう人はいるな。いつも忙しそうに飛び回って、何か常に画策している。その人の生きる本筋とは無縁のようなことについても懸命にやる。時にフィクサーと呼ばれ、関係のないことにも必ず名前があがる。西東三鬼という人もそうだったのだろう。新興俳句弾圧の折には三鬼スパイ説なんてのもあったし、俳人協会を設立して現代俳句協会から主要俳人を引き抜いたのも三鬼らしい。この人の無頼な生き様は自叙伝『神戸』『続神戸』からもうかがえる。女性関係の奔放さも。静塔と三鬼はいわば盟友。戦後、山口誓子を担いでの「天狼」設立の主要メンバーである。精神科医である静塔は盟友三鬼を「いつも忙しく動いてないでたまにはゆったりしろよ」という眼で見ていたに違いない。こいつ、性分だからしょうがないなという友情で見ていたのかもしれない。もう何もするなと心の中で呼びかけながら棺の中に薔薇を置く。菊ではなくて薔薇というのも三鬼にふさわしい。政治家や芸能人の葬儀でよくある「あの世ではどうぞゆっくりお休みください」というのとは違う。「もう何もするな」の命令調に滲む友情と悲しみ。『現代の俳人101』(2004)所収。(今井 聖)




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