副大臣は軽音楽を愛好する。小四漢字ドリルの問題だが何とかならないかね。(哲




2009ソスN7ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0972009

 ちんぐるま眼の奥の涼しかり

                           本郷をさむ

んぐるま(稚児車・イワグルマ)は高さ十センチほどの茎の先に白い五弁花をつける高原の花だそうだ。山道でふと目に留まる花の名前を知りたいと思うけど植物図鑑の付いた電子辞書を持っていてもなかなか調べがつかない。何かいい方法はないだろうか。出会った植物を名前で呼びかけると、格別の親しみを覚えることだろう。岩蔭に咲いている可憐な高山植物を囲んで楽しそうに談笑している一行に「どうぞ、お先に」と道を譲られると、頂上を目指してやっきになっていた気持ちも歩調も緩んでくる。高山では植物が育つのに平地に比べて何倍も時間がかかるという。山頂付近に群生するちんぐるまを見つつ、山の冷涼な空気に触れていると、都会にいるときより自分の眼が澄んできて遠くまで見渡せそうな気分になるのだろう。この「涼し」にそんな清々した気持ちも含まれているように思えた。『物語山』(2008)所収。(三宅やよい)


July 0872009

 朝焼けの溲瓶うつくし持ち去らる

                           結城昌治

焼けに対して朝焼け、いずれも夏の季語。何といっても「朝焼け」と「溲瓶」の取り合わせが尋常ではない。思わず息を_むほどの、とんでもない取り合わせではないか。空っぽの溲瓶ではあるまい。朝焼けをバックにしたガラス瓶のなかの排泄したての尿は、先入観なしに見つめれば、決して汚いものではない。尿の色を「美し」ではなく「うつくし」とソフトに視覚的に受け止めた感性には恐れ入る。「うつくし」いそのものが、さっさと持ち去られたことに対する呆気なさ、口惜しさ――と言ってしまっては大袈裟だろうか。病人が快方に向かいつつある、ある朝の病室のスケッチ。ここで私は、昔のある実景を不意に思い出した。学生時代に、怪我で入院していた同年齢のいとこを見舞ったときのことである。彼はベッドで溲瓶を使い、たっぷり入った尿の表面の泡を「ほら、ほら」と大まじめに口で吹いてみせたから、二人で顔を見合わせて大笑いした。大ジョッキのビールもかくや! 二十二歳の昌治が師事していた病友・石田波郷が主宰する句会での作。二人の病室は隣り合っていた。波郷にも「秋の暮溲罎泉のこゑをなす」という別のときの句がある。こちらは音。私なら昌治の「溲瓶」に点を入れる。まあ、いずれも健康な人には思いもよらない句である。昌治には二冊の句集『歳月』『余色』がある。『俳句は下手でかまわない』という、うれしくもありがたい著作があり、「初蝶や死者運ばれし道をきて」という病中吟もある。江國滋『俳句とあそぶ法』(1984)所載。(八木忠栄)


July 0772009

 雷去るや鍋に膨らむ浸し豆

                           鶴川和子

がじゃんじゃん降ろうが、太陽がじりじり照りつけようが、腹の底を揺さぶるような雷ほどおそろしくはない。大昔から変わることなく、人間はこの気象現象に身をすくませてきたのだろう。そろそろと遠ざかる雷を見送り、ようやく人心地がつく。「人心地」の本意である「生きたここち」という感じがたいへんぴったりする瞬間だ。一方、台所では固い豆たちが鍋のなかでしっとりとやわらかに膨らんでいる真っ最中なのだ。雷と豆に因果関係をつけるとしたら、節分で鬼をはらうのは炒った大豆を使う、などと思いついたが、雷神がモデルの雷さまと、豆撒きの鬼では出自が違うし、むろん関係を強いるところではない。むしろふたつの関係が淡いほど、遠ざかる雷の余韻が心に残り、目の前の日常そのものである台所の情景がくっきりと際立つのだから俳句という詩型は不思議だ。あらかたの水をすっかり吸い込み、膨らみ続ける豆。ふと、今夜の天の川の具合が気になってみたりして、思いはまた空へと戻る。これも、わずかながらどこかでつながっている雷と豆の効用なのかもしれない。『紫木蓮』(2009)所収。(土肥あき子)




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