July 072009
雷去るや鍋に膨らむ浸し豆
鶴川和子
雨がじゃんじゃん降ろうが、太陽がじりじり照りつけようが、腹の底を揺さぶるような雷ほどおそろしくはない。大昔から変わることなく、人間はこの気象現象に身をすくませてきたのだろう。そろそろと遠ざかる雷を見送り、ようやく人心地がつく。「人心地」の本意である「生きたここち」という感じがたいへんぴったりする瞬間だ。一方、台所では固い豆たちが鍋のなかでしっとりとやわらかに膨らんでいる真っ最中なのだ。雷と豆に因果関係をつけるとしたら、節分で鬼をはらうのは炒った大豆を使う、などと思いついたが、雷神がモデルの雷さまと、豆撒きの鬼では出自が違うし、むろん関係を強いるところではない。むしろふたつの関係が淡いほど、遠ざかる雷の余韻が心に残り、目の前の日常そのものである台所の情景がくっきりと際立つのだから俳句という詩型は不思議だ。あらかたの水をすっかり吸い込み、膨らみ続ける豆。ふと、今夜の天の川の具合が気になってみたりして、思いはまた空へと戻る。これも、わずかながらどこかでつながっている雷と豆の効用なのかもしれない。『紫木蓮』(2009)所収。(土肥あき子)
July 062009
孫悟空白雲木の花と馳す
大串 章
孫悟空とは、また懐しや。いまでは漫画化やアニメ化もされていて、誰にもお馴染のキャラクターだが、作者や私の子供時代には、その活躍ぶりは活字の世界の中にしかなかった。ということは、誰もがそれぞれに固有の孫悟空像をイメージしていたので、世界中には無数の孫悟空が「存在」したわけだ。だから悟空がキント雲に乗って空を馳せ回るといっても、この雲のイメージも、それぞれに違っていたはずである。『西遊記』の原文にキント雲の色や形状の説明がなされているのかどうかは知らないけれど、愛すべき猿の妖怪が乗るのである以上、あまり邪悪な印象を与える黒雲を想像する子供はいなかったのではあるまいか。作者もまた、真っ白な雲に飛び乗り如意棒を携えて空を行く颯爽とした姿に憧れていたのだろう。そんな少年時から幾星霜の時を隔て、たなびくように白い花を咲かせた白雲木(はくうんぼく)を眺めているうちに、ふと孫悟空を思い出し、これぞあのキント雲ではないかと、膝を叩いたときの句だ。楽しい句だが、それにとどまらず、二度と戻らぬ子供時代への愛惜の情も滲んでいて、読者の心をしんとさせる。なお、私の手元の歳時記に「白雲木」の項目は見当たらないが、この木は「エゴノキ」と同属であり、花期(初夏)も形状(白雲木のほうが葉が大きくて丸い)もよく似ているので、当歳時記では夏の季語に分類しておく。俳誌「百鳥」(2009年7月号)所載。(清水哲男)
July 052009
愛されずして沖遠く泳ぐなり
藤田湘子
もっとも鮮烈で純粋な愛は片思いであると、先日韓国ドラマを見ていたら、そんなセリフが出てきました。愛に関する言葉など、どんなふうに言ったところで、身に惹きつけてみれば、長い人生の中でそれなりに頷かれる部分はあるものです。岸から遠くを、激しく腕を動かしながら、若い男が泳いでいます。見れば海岸には、思いを寄せる一人の女性の姿が見えています。遠くて表情まではわからないものの、友人と並んで、屈託なく笑ってでもいるようです。どんなにこちらが愛したところで、その人に愛されるとはかぎらないのだと、泳ぎの中で無残にも確認しているのです。夏の明るすぎる光を、いつもよりもまぶしく感じながら、どうにもならない思いの捨て場を、さらに探すように沖へ泳いでゆきます。夏休み、と聞くだけで妙に切なくなるのは、ずっとその人のことを思うことの出来る長い時間が、残酷にも与えられてしまうからなのです。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)
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