2009ソスN6ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2462009

 梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに

                           横光利一

来「梅雨晴れ」は、梅雨が明けて晴れの日がつづくという意味で使われたらしいが、変わってきたのだという。つまり梅雨がつづいている間に、パッと晴れる日があったりする、それをさしている。掲出句もまさにそうした一句であろう。鬱陶しい梅雨がつづいている間は、あまり外出する気にもなれない。所在なく寝ころがって手枕(肘枕)して、雑誌でも開いていたのか、ラジオを聴いていたのか、それともやまず降る窓外の雨を眺めていたのか。……長い時間そんな無理な姿勢をしていたので、腕が痛いし、骨がきしんで悲鳴をあげる。そうした自分に呆れているといった図であろうか。畳の間にのんびり寝ころがって、そのような姿勢をつづけてしまうことだってある。浴衣かアンダーシャツ姿で、だらしなくごろりとして無聊を慰めるひとときは、一種の至福の時間でもある。覚えがあるなあ。「骨鳴るままに」と詠んだところに、自嘲めいたアイロニーが読みとれる。利一は門下生を集めた「十日会」で俳句を唱導し、「俳句は小説の修業に必要だ」とまで言って、自らも多くの俳句を残した。夏の句に「日の光り初夏傾けて照りわたる」「静脈の浮き上り来る酷暑かな」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2362009

 あにいもとわかれわかれよさくらんぼ

                           吉岡桂六

くらんぼは「桜ん坊」。「甘えん坊」や「朝寝坊」などと同様の親しみの接尾語を持つ、唯一の果実である。現実はともかく、イラストでは必ず二つひと組が基本で描かれるというのも、可愛らしく思う気持ちが働いているように思われる。掲句は、二つつながりのさくらんぼの一つを口に入れたとき、仲良しの兄妹を引き裂いてしまったような罪悪感がふっと生まれたのだろう。すべてを平仮名表記にすることで、赤黒いアメリカンチェリーではなく、きらきらと光る清々しい鮮紅色を思わせ、またふっくらした幼い日々を彷彿させる。桜の花がそうであるように、さくらんぼも収穫時には複数個が連なって結実しているが、箱入れの状態で花枝ごとに切り離し、ひと粒ごとにサイズ決定をするという。この作業にも掲句の気持ちが終始よぎっているのではないか。まるで意地悪な継母になったように、兄妹たちをばらばらにしていく。「ヘンゼルとグレーテル」「青い鳥」「白鳥の王子」など、童話で登場する兄と妹は、どれも困難を乗り越える永遠のモチーフであった。『若き月』(2009)所収。(土肥あき子)


June 2262009

 山椒魚あらゆる友を忘れたり

                           和田悟朗

椒魚と聞けば、井伏鱒二の短編を思い出す。近所の井の頭自然文化園別館に飼育されているので、たまに見に行くが、いつも井伏の作品を反芻させられてしまう。この国では、本物の山椒魚よりも、井伏作品中のそれのほうがポピュラーなのかもしれない。この句を読んだ時にも、当然のように思い出した。作者にしても、おそらく井伏作品が念頭にあっての詠みだろう。文学、恐るべし。谷川にできた岩屋を棲家としている山椒魚は、ある日突然、その岩屋の出口から外に出ることができなくなるほど大きくなってしまっていることに気づく。大きくなった頭が、岩屋の出口につっかえてしまうのである。孤独地獄のはじまりだ。そこでついには、岩屋の中に入り込んできた蛙を自分と同じ境遇にしてしまえと考えて、閉じ込めてしまう。彼らのその後の運命については、書かれていないのでわからない。しかし、たぶんその蛙は先に死んでしまい、その後の山椒魚は孤独の果てに、ついには世俗へのあらゆる関心を失って行く。ただ、ぼおっとしていて、ほとんど身じろぎすらもしない存在と化してしまう。そのことを「あらゆる友を忘れたり」と一言で表現した作者の想像力は深くて重い。なんという哀しい言葉だろうか。今度山椒魚を見る時には、私はきっとこの句を思い出すにちがいない。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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