2009ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1962009

 それは少し無理空蝉に入るのは

                           正木ゆう子

句をつくる上での独自性を志す要件はさまざまに考えられるが、この短い形式における文体の独自性は究極の志向といっていいだろう。優れた俳人も多くは文体の問題はとりあえず手がつかない場合が多い。自由律でもない限り575基本形においてのバリエーションであるから、オリジナルの余地は極端に少ないと最初から諦めているひとがほとんどではないか。否な、自由律俳句といえど尾崎放哉のオリジナル文体がその後の自由律の文体になった。自由といいながら放哉調が基本になったのである。内容の新と同時に器の新も工夫されなければならない。この句の器は正木さんのオリジナルだろう。33255のリズムの器。「無理」の言い方が口語調なのでこの文体が成立した。その点と魅力をもうひとつ。「少し」がまぎれもない「女」の視点を感じさせる。男はこの「少し」が言えない。オリジナルな「性」の在り方も普遍的な課題である。『夏至』(2009)所収。(今井 聖)


June 1862009

 焼酎と鉄腕アトムの模型かな

                           瀬戸正洋

の前にあるものを並べて書いた俳句に思えるが、読んだあと物憂い印象が残る。焼酎のそばに置いてある古ぼけた鉄腕アトムのプラモデル。とある酒場の薄暗いカウンターでそれらをぼんやり眺めている作者に気持ちを重ねると「かな」の詠嘆に込められた孤独が響いてくる。「親殺し子殺し地雷と筍と」「拉致と核と餓死と憎悪と朧月」など並びの強烈なのも多々あるが、時事俳句など利いた風な名で括りたくはない。ひとつひとつの言葉は重いのに、強く主張してくるものを感じさせないのはなぜだろう。かといって現実を突き放して傍観しているわけでもない。作者独自の立ち位置でさんざんな現実と季語を等価に並べ、読む側に説明しがたいむず痒さと、静かなゆさぶりをかけてくるようだ。句集とともに収録された論も面白く読み応えのある一冊だった。『A』(2009)所収。(三宅やよい)


June 1762009

 海月海月暗げに浮かぶ海の月

                           榎本バソン了壱

水浴シーズンの終わり頃になるとクラゲが発生して、日焼けした河童たちも海からあがる。先日(5月下旬)東京湾で、岸壁近くに浮かぶクラゲを二つほど見つけた。「海月」はクラゲで「水母」とも書く。ミズクラゲ、タコクラゲ、食用になるのがビゼンクラゲ。近年はエチゼンクラゲという、漁の妨害になる厄介者も大量発生する。掲出句は海水浴も終わりの時節、暗い波間に海月がいくつも浮かんで、まるで海面を漂う月を思わせるような光景である。実際の月が映っているというよりも、ふわふわ白く漂う海月を月と見なしている。解釈はむずかしくはないが、「海月(くらげ)」と「暗げ」は了壱得意のあそびであり、K音を四つ重ねたのもあそびごころ。「海の月」と「天の月」をならべる類想は他にもあるが、ここはまあそのあそびごころに、詠む側のこころも重ねて素直にふわふわと浮かべてみたい。了壱は「句風吹き根岸の糸瓜死期を知る」というあそびごころの句にも挑戦して、既成俳壇などは尻目に果敢に独自の「句風」を吹きあげつづけている。かつて、芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」を、得意のアナグラムで「腿(もも)が露サドの縄目の痕(あと)付くや」というケシカランあそびで、『おくのほそ道』の句に秘められた暗号の謎(?)をエロチックに解明してみせて、読者を驚き呆れさせた才人である。そう、俳句の詩嚢は大いにかきまわすべし。『春の画集』(2007)所収。(八木忠栄)




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