2009N618句(前日までの二句を含む)

June 1862009

 焼酎と鉄腕アトムの模型かな

                           瀬戸正洋

の前にあるものを並べて書いた俳句に思えるが、読んだあと物憂い印象が残る。焼酎のそばに置いてある古ぼけた鉄腕アトムのプラモデル。とある酒場の薄暗いカウンターでそれらをぼんやり眺めている作者に気持ちを重ねると「かな」の詠嘆に込められた孤独が響いてくる。「親殺し子殺し地雷と筍と」「拉致と核と餓死と憎悪と朧月」など並びの強烈なのも多々あるが、時事俳句など利いた風な名で括りたくはない。ひとつひとつの言葉は重いのに、強く主張してくるものを感じさせないのはなぜだろう。かといって現実を突き放して傍観しているわけでもない。作者独自の立ち位置でさんざんな現実と季語を等価に並べ、読む側に説明しがたいむず痒さと、静かなゆさぶりをかけてくるようだ。句集とともに収録された論も面白く読み応えのある一冊だった。『A』(2009)所収。(三宅やよい)


June 1762009

 海月海月暗げに浮かぶ海の月

                           榎本バソン了壱

水浴シーズンの終わり頃になるとクラゲが発生して、日焼けした河童たちも海からあがる。先日(5月下旬)東京湾で、岸壁近くに浮かぶクラゲを二つほど見つけた。「海月」はクラゲで「水母」とも書く。ミズクラゲ、タコクラゲ、食用になるのがビゼンクラゲ。近年はエチゼンクラゲという、漁の妨害になる厄介者も大量発生する。掲出句は海水浴も終わりの時節、暗い波間に海月がいくつも浮かんで、まるで海面を漂う月を思わせるような光景である。実際の月が映っているというよりも、ふわふわ白く漂う海月を月と見なしている。解釈はむずかしくはないが、「海月(くらげ)」と「暗げ」は了壱得意のあそびであり、K音を四つ重ねたのもあそびごころ。「海の月」と「天の月」をならべる類想は他にもあるが、ここはまあそのあそびごころに、詠む側のこころも重ねて素直にふわふわと浮かべてみたい。了壱は「句風吹き根岸の糸瓜死期を知る」というあそびごころの句にも挑戦して、既成俳壇などは尻目に果敢に独自の「句風」を吹きあげつづけている。かつて、芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」を、得意のアナグラムで「腿(もも)が露サドの縄目の痕(あと)付くや」というケシカランあそびで、『おくのほそ道』の句に秘められた暗号の謎(?)をエロチックに解明してみせて、読者を驚き呆れさせた才人である。そう、俳句の詩嚢は大いにかきまわすべし。『春の画集』(2007)所収。(八木忠栄)


June 1662009

 人間に呼吸水中花に錘

                           石母田星人

る記念会のお土産のために、水中花をまとめ買いしたことがある。小さなグラスのなかで軽やかに広がる可愛らしい造花としか想像していなかった手に届いたそれらは、ずっしりと思いもよらぬ重量だった。水のなかで揺らめく優美な姿が、錘でつなぎとめられていることをすっかり忘れていたのだ。掲句では肝心なものとして呼吸と錘をそれぞれ並べているのだが、ふとある本に「人間は空気の層の底辺で這うようにして生きている」と書かれていたことを思い出した。地上は、見方を変えれば空気の底でもあるのだという事実に愕然としたものだが、掲句であっさりと呼吸と錘が並記されてことにより、人間も深く息を吐かなければ、実は浮き上がってしまう心もとない生きもののように思えてきた。折しも各地で空からおたまじゃくしが降ってきたという不思議なニュース。うっかり呼吸を忘れてしまったおたまじゃくしたちが、まるで音符を連ねるようにぷかりぷかりと雲に吸い込まれてしまったのかもしれない。白い画用紙を広げたような梅雨の空を見あげながら、大きく丁寧に息をしてみる。『膝蓋腱反射』(2009)所収。(土肥あき子)




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