太陽が弱っているそうな。そうだった、太陽もいつかは消滅するんだった。(哲




2009ソスN6ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0562009

 香水や腋も隠さぬをんなの世

                           石川桂郎

本家の馬場當さんが言った。「今井君えらい世の中になったよ」近所の夫婦の夫婦喧嘩の仲裁をしたときのことらしい。妻の浮気を疑っている夫を妻は鼻でせせら笑った。「まったくうるさいわねえ。浮気してたらどうだって言うのよ。減るもんじゃあるまいし」君ねえ、女の方が「減るもんじゃあるまいし」って言うんだ。世の中も変わったねえ。馬場さんが感慨ぶかげに言ったのが5年前。この前会ったときも女性論議。「今、女が運転しながら咥え煙草は当たり前だもんな。今井君もう少し経つと女が立小便するようになるよ」立小便はともかくも男女関係のどろどろの修羅場を得意とする馬場さんらしい慨嘆だとは思った。まあ、男はとかく女に自分の理想を押し付けたがる。そこの虚実にドラマも生まれる。腋を隠さぬくらいで男が驚いたのは昭和29年の作。ここから確かに虚実の実の方の範囲は拡大した。「らしさ」という虚の方もまた時代に沿って姿を変えている。「減るもんじゃなし」を桂郎さんに聞かせたらたまげるだろうな。『現代俳句大系第十一巻』(1972)所収。(今井 聖)


June 0462009

 イエスの足ニワトリの足梅雨寒し

                           大畑 等

末は雨ばかり降っていたが、東京もそろそろ梅雨入りだろうか。イエスの足と言えば教会の正面に掲げられている磔刑像を思う。腰布を巻き痩せた足を重ねた甲のあたりに太い釘を打たれている。生身の人間の手足に釘を打ち込んで十字架にぶら下げるなど考えるだけで恐ろしい。カトリック信者には不遜な並列に思えるかもしれないが、聖堂の椅子から見上げる脛の長い足はニワトリの足に似ている。「梅雨寒し」が、がらんとした聖堂の暗さと冷たさをイメージさせる。キリストは人間の救済のために自らを犠牲にし、ニワトリは人間の食のために首をはねられる。そうした批評性を俳句に読みとり、並列された足の共通項を結ぶものとして「梅雨寒し」を見ると意味的になる。そうした点で嫌う向きもあろうが、対象へ向かう作者の視点を明確に季語と切り結ぶことも大切だと思う。『ねじ式』(2009)所収。(三宅やよい)


June 0362009

 蛇の衣草の雫に染まりけり

                           巌谷小波

年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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