天安門事件から20年。草森紳一の『中国文化大革命の大宣伝』を読んでいる。(哲




2009ソスN6ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0462009

 イエスの足ニワトリの足梅雨寒し

                           大畑 等

末は雨ばかり降っていたが、東京もそろそろ梅雨入りだろうか。イエスの足と言えば教会の正面に掲げられている磔刑像を思う。腰布を巻き痩せた足を重ねた甲のあたりに太い釘を打たれている。生身の人間の手足に釘を打ち込んで十字架にぶら下げるなど考えるだけで恐ろしい。カトリック信者には不遜な並列に思えるかもしれないが、聖堂の椅子から見上げる脛の長い足はニワトリの足に似ている。「梅雨寒し」が、がらんとした聖堂の暗さと冷たさをイメージさせる。キリストは人間の救済のために自らを犠牲にし、ニワトリは人間の食のために首をはねられる。そうした批評性を俳句に読みとり、並列された足の共通項を結ぶものとして「梅雨寒し」を見ると意味的になる。そうした点で嫌う向きもあろうが、対象へ向かう作者の視点を明確に季語と切り結ぶことも大切だと思う。『ねじ式』(2009)所収。(三宅やよい)


June 0362009

 蛇の衣草の雫に染まりけり

                           巌谷小波

年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 0262009

 黒南風や無色無臭の象の檻

                           戸恒東人

ともと風が肝心な船乗りの間で使われていたという黒南風(くろはえ)と白南風(しろはえ)。梅雨に入って陰鬱な暗い雲から放たれる南風を黒南風、梅雨が明けて青い空に白い雲が浮かぶような頃になると白南風。湿度による重苦しさを黒と白の色によって区別することで、南風は人間との関わり合いをより深く持つようになった。掲句は象の檻に吹き抜ける黒南風。巨大な象のすみかを前にして、そこが無色無臭であることが強烈な違和感を際立たせる。野生の動物たちは、自然界のなかで色彩によって身を隠し、匂いで仲間を確かめ合う。無色無臭とは人工の極地であろう。記憶の彼方の樹木や果実の色、灼熱の太陽や砂塵の匂いを思い出しながら、象は人臭い檻のなかで残りの一生を過ごす。象は人間の聞き分けられる周波数よりずっと低い、5ヘルツという超低周波音で発声しているという。無味乾燥な檻の内側でつぶやき続ける象の悲しいひとりごとが、鬱陶しい梅雨の雲を引き寄せているように思えてくる。『過客』(2009)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます