2009N6句

June 0162009

 紫陽花を活けてナースのサウスポー

                           姉崎蕗子

者はベテランの看護師だ。朝のナースの詰め所で、後輩が紫陽花を活けている。普段はさして気にも留めていなかったけれど、彼女ないしは彼は左利きだった。右利きの人間には左利きの人のちょっとした所作も器用に写るものだから、作者も思わず見入っているのだろう。左手の動きが、まことにしなやかで頼もしく思われる。左利きとせず、あえて「サウスポー」と野球用語を使ったことで、腕の動きがクローズアップされた。紫陽花のざっくりとした持ち味も、生きてくる。なんでもない日常の一場面だが、職場の充実した雰囲気がよく伝えられている。ところで、活けているのは女だろうか男だろうか。英語の「ナース(nurse)」は両者を言うから、どちらなのかはわからない。これを「看護師」と訳しても同様だ。この国では、つい最近まで「看護婦」という言葉が生きていたのに、男女差別になるからと追放してしまったのは、私には解せない。「看護婦」のどこが差別なのか。単なる区別だろうに……。掲句のナースは、野球用語が使われてはいても、女性だと思う。このしなやかさとたくましさを備えていることで、昔から看護婦は頼もしくも美しかった。『蕗子』(2009)所収。(清水哲男)


June 0262009

 黒南風や無色無臭の象の檻

                           戸恒東人

ともと風が肝心な船乗りの間で使われていたという黒南風(くろはえ)と白南風(しろはえ)。梅雨に入って陰鬱な暗い雲から放たれる南風を黒南風、梅雨が明けて青い空に白い雲が浮かぶような頃になると白南風。湿度による重苦しさを黒と白の色によって区別することで、南風は人間との関わり合いをより深く持つようになった。掲句は象の檻に吹き抜ける黒南風。巨大な象のすみかを前にして、そこが無色無臭であることが強烈な違和感を際立たせる。野生の動物たちは、自然界のなかで色彩によって身を隠し、匂いで仲間を確かめ合う。無色無臭とは人工の極地であろう。記憶の彼方の樹木や果実の色、灼熱の太陽や砂塵の匂いを思い出しながら、象は人臭い檻のなかで残りの一生を過ごす。象は人間の聞き分けられる周波数よりずっと低い、5ヘルツという超低周波音で発声しているという。無味乾燥な檻の内側でつぶやき続ける象の悲しいひとりごとが、鬱陶しい梅雨の雲を引き寄せているように思えてくる。『過客』(2009)所収。(土肥あき子)


June 0362009

 蛇の衣草の雫に染まりけり

                           巌谷小波

年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 0462009

 イエスの足ニワトリの足梅雨寒し

                           大畑 等

末は雨ばかり降っていたが、東京もそろそろ梅雨入りだろうか。イエスの足と言えば教会の正面に掲げられている磔刑像を思う。腰布を巻き痩せた足を重ねた甲のあたりに太い釘を打たれている。生身の人間の手足に釘を打ち込んで十字架にぶら下げるなど考えるだけで恐ろしい。カトリック信者には不遜な並列に思えるかもしれないが、聖堂の椅子から見上げる脛の長い足はニワトリの足に似ている。「梅雨寒し」が、がらんとした聖堂の暗さと冷たさをイメージさせる。キリストは人間の救済のために自らを犠牲にし、ニワトリは人間の食のために首をはねられる。そうした批評性を俳句に読みとり、並列された足の共通項を結ぶものとして「梅雨寒し」を見ると意味的になる。そうした点で嫌う向きもあろうが、対象へ向かう作者の視点を明確に季語と切り結ぶことも大切だと思う。『ねじ式』(2009)所収。(三宅やよい)


June 0562009

 香水や腋も隠さぬをんなの世

                           石川桂郎

本家の馬場當さんが言った。「今井君えらい世の中になったよ」近所の夫婦の夫婦喧嘩の仲裁をしたときのことらしい。妻の浮気を疑っている夫を妻は鼻でせせら笑った。「まったくうるさいわねえ。浮気してたらどうだって言うのよ。減るもんじゃあるまいし」君ねえ、女の方が「減るもんじゃあるまいし」って言うんだ。世の中も変わったねえ。馬場さんが感慨ぶかげに言ったのが5年前。この前会ったときも女性論議。「今、女が運転しながら咥え煙草は当たり前だもんな。今井君もう少し経つと女が立小便するようになるよ」立小便はともかくも男女関係のどろどろの修羅場を得意とする馬場さんらしい慨嘆だとは思った。まあ、男はとかく女に自分の理想を押し付けたがる。そこの虚実にドラマも生まれる。腋を隠さぬくらいで男が驚いたのは昭和29年の作。ここから確かに虚実の実の方の範囲は拡大した。「らしさ」という虚の方もまた時代に沿って姿を変えている。「減るもんじゃなし」を桂郎さんに聞かせたらたまげるだろうな。『現代俳句大系第十一巻』(1972)所収。(今井 聖)


June 0662009

 妙なとこが映るものかな金魚玉

                           下田實花

余りの上五の口語調が、新橋の芸妓であった實花らしいちゃきちゃきした印象。団扇片手に涼んでいたら、縁先に吊した球形に近い金魚玉に、あらぬ方向の窓の外を通る人影かなにかが動いて見えたのだろう。日常の中で、あら、と思ったその小さな驚きを、さらりと詠むところは、同じ芸妓で句友でもあった武原はん女と相通じている。實花、はん女、それにやはり新橋の芸妓で常磐津の名手であった竹田小時の三人が、終戦直後の名月の夜、アパートの屋上でほろ酔い気分、口三味線に合わせ足袋はだしで舞った、という話をはん女の随筆集で読んだ。その小時にも金魚の句〈口ぐせの口三味線に金魚見る〉がある。知人の金魚が金魚玉いっぱいに大きくなってしまった時、窮屈そうで気の毒と思うのは人間の勝手、あの子はあれで案外幸せなのよ、と言っていた。見るともなく金魚を見ている二人の芸妓。何が幸せ不幸せ、ときに自分を重ねてみたりすることもあっただろうか。『實花句帖』(1955)所収。(今井肖子)


June 0762009

 酒を煮る家の女房ちよとほれた

                           与謝蕪村

語は「酒を煮る」、夏です。聞きなれない言葉ですが、江戸時代には酒を煮たようです。殺菌のためでしょうか。おそらく蔵出しの日には、女将が道行く人にお酒を振舞ったのでしょう。この句、どう考えても空想で書いたとは思えず、あるいはわざわざ空想で書くほどの内容でもなく、作者自身の体験をそのまま詠んだとしか思われません。みょうに実感があります。深みにはまってしまうのではなく、女性を見て、ああきれいな人だなという程度の、罪のない賛美のこころがよく描かれています。まさに、酒に酔えば美のハードルは若干低くもなっており、軽く酔ったよい気分で、女性に心が向かう姿が素直に伝わってきます。「ちよとほれた」は、すでに酒と恋に酔ってしまった人の、箍(たが)の外れた言い回しになっています。ともかく、こんなふうに浮かれている作者の姿が、なんだかとても身近に感じられ、読者は蕪村の句に、ちょっとならずも惚れなおしてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 0862009

 弾みたる子等の声して目高散る

                           川崎美代子

高は耳聡いのだろうか。童謡「めだかの学校」の生まれた背景に、こんな話がある。作詞者の茶木繁が幼い息子と一緒に歩いていたとき、息子が用水に目高を見つけて大声を出した。すると目高たちが姿を隠してしまったので、茶木が言った。「あんまり大声を出すもんだから、逃げちゃったじゃないか」。で、息子が言ったことには「大丈夫、また戻ってくるよ。だって、ここは"めだかの学校"だもん」。これが作詞のヒントになったのだという。だから「そっとのぞいてみてごらん」なのである。つまり、「大声をだしてはいけないよ」という大人の知恵を効かせてある。息子のの屈託の無さに比べると、かなり素直さに欠けており、掲句も微笑ましい佳句ながら、同様に大人の限界も透けているかのようだ。私が子供だった頃のことを思い返してみても、"そっとのぞいて"目高の群れを眺めるようなことは、あまりしなかったと思う。見つけたら、まずは水に手を突っ込む。さらには棒切れで引っかき回す。それにも飽きると、今度はそおっと近づいて、やにわに両手で捕獲するのだ。そして、ここからが本番。捕獲した目高は決して放さずに、生きたまま飲み込むのである。べつに目高が美味いからではなくて、これは一種の度胸試しなのであった。飲めない子は、意気地無しと馬鹿にされ囃された。馬鹿にされるのは悔しいから、みんな争って何匹も口に放り込む。これが目高との主たるつきあい方だった。大人になると、こんな悪ガキの生態をおおかた忘れてしまう。微笑ましい情景だけを切り取ってきて満足するようになる。大人になるって、なんか侘びしいんだよなあ。円虹例句集『彩』(2008)所載。(清水哲男)


June 0962009

 かうしてはをれぬ毛虫が食べつくす

                           林 菊枝

年前、チャドクガの毛虫に刺されてひどい目にあった。葉の裏にびっしりと群れる様子は、毛羽立った布の切れ端が貼り付いているようにも見える。一斉にうごめきながら、端からどんどん葉が消えていく食べっぷりを思えば、掲句の通り「こうしてはおれぬ」と居ても立ってもいられぬ気分になるものだ。頭のなかには、みるみる丸裸にされていく愛すべき木の姿がイメージされる。毛虫の極彩の色彩は、天敵の鳥に対しての警告色だというが、目立つことで捕食されないというのも、なにやら攻撃的な生き方である。残酷だと思っていた毛虫の時期に登場する「毛虫焼く」の傍題にも、日頃の偉大なる自然への敬意をあっさり返上して、「もはや、それしかないでしょう」と頷いている。と、こう書いているだけで、なんだか全身むず痒くなってきた。〈綿虫のどれにも焦点が合はぬ〉〈考えてみたし栄螺の展開図〉作者は昭和2年生まれ。羨望の柔軟性である。『草のティアラ』(2009)所収。(土肥あき子)


June 1062009

 紫陽花に馬が顔出す馬屋の口

                           北原白秋

陽花が咲きはじめている。紫陽花はカンカン照りよりはむしろ雨が似合う花である。七変化、八仙花―――次々と花の色が変化して、観る者をいつまでも楽しませてくれる。花はてんまりによく似ているし、また髑髏にも似た陰気をあたりに漂わせてくれる。“陽”というよりは“陰”の花。それにしても、馬屋(まや)の入口にびっしり咲いている紫陽花と、長い馬の顔との取り合わせは、虚をついていて妙味がある。今をさかりと咲いている紫陽花の間から、のっそりと不意に出てくる馬の顔も、白秋にかかるとどこかしら童謡のような味わいが感じられるではないか。そういえば白秋のよく知られた童謡のなかでは、野良へ「兎がとんで出」たり、蟹の床屋へ「兎の客」がやってきたりする。この句はそんなことまで想起させてくれる。紫陽花の句では、安住敦の「あぢさゐの藍をつくして了りけり」が秀逸であると私は思う。白秋の作句は大正十年(小田原時代)からはじまっており、殊に関東大震災を詠んだ「震後」三十八句は秀抜とされている。その一句は「日は閑に震後の芙蓉なほ紅し」。ほかに「白雨(ゆふだち)に蝶々みだれ紫蘇畑」「打水に濡れた小蟹か薔薇色に」などに白秋らしい色彩が感じられる。句集に『竹林清興』(1947)がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1162009

 蛍死す金平糖になりながら

                           中島砂穂

んともはや奇想天外。世に蛍の句は多けれど、蛍の死をこんな風に詠んだ句にはまずお目にかかれない。蛍の醸し出すイメージは、恋に身を焼く蛍かな、のように自らの恋心を重ねたり、死んだ人の魂を託したりと思い入れたっぷりに使われてきたように思う。死んだ蛍を詠んだ句では永田耕衣の「死蛍に照らしをかける蛍かな」があるが、凄みがあり妖気溢れる蛍の光景である。掲句では、そんな蛍の見方をうっちゃって、息絶えて地面にぽたりぽたりと落ちた蛍が金平糖になってしまう。蛍が放っていた光が金平糖の突起になって固まってしまうなんて漫画チックな展開だ。掌にこぼす色とりどりの金平糖が闇を飛び回っていた蛍だと思えば、金平糖の甘さにほろと苦い哀感が隠し味として加わりそうだ。『熱気球』(2008)所収。(三宅やよい)


June 1262009

 柿の花こぼれて久し石の上

                           高浜虚子

の小さな柿の花がこぼれて落ちて石の上に乗っている。いつまでも乗っている。「写生」という方法が示すものは、そこから「永遠」が感じられるということが最大の特徴だと僕は思っている。永遠を感じさせるカットというのはそれを見出した人の眼が感じられることが第一条件。つまり「私」が見たんですよという主張が有ること。第二にそこにそれが在ることの不思議が思われること。これが難しい。川端茅舎の「金剛の露ひとつぶや石の上」は見事な句と思うが露の完璧な形とその危うさ、また露と石の質感の対比に驚きの目が行くために露がそこに在ることの不思議さとは少し道筋が違う気がする。それはそれでもちろん一級の写生句だとは言えようが。どこにでもある柿の花が平凡な路傍の石の上に落ちていつまでもそこにある。この句を見るたび、見るかぎり、柿の花は永遠にそこに在るのだ。『ホトトギス季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)


June 1362009

 黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし

                           西東三鬼

ういうのを黒南風というのかな、と思う日があった。東京に梅雨入り宣言が出される少し前、ぬるくまとわりつくような風と細かい雨が、一日街をおおっていた。帰宅して、歳時記の黒南風のところを読んでいて惹かれたのが掲出句。岬に一人立って思いきり大きい声で、あるいは声にならない声を心の中に響かせて、誰かの名を呼んでいる・・・というのなら、それが冷たく突き刺さる北風ではなく、生暖かい黒南風であればなお、じんわりとやりきれなく寂しい。そこをきっぱり、呼ぶ名なし、と言い切っているこの句には、ものすごくがらんとした深い孤独感が、強烈に存在している気がした。以前から気になっていた、三鬼、という俳号のいわれなど見てみると、1933年に三十三歳で俳句を始めたからとか、サンキュウのもじりだとか、諸説。気になるのはむしろ、なぜ「鬼」か、なのだけれど。『図説俳句大歳時記 夏』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


June 1462009

 家は皆海に向ひて夏の月

                           正岡子規

うなのか、と思います。たしかに家にも正面があるのだと、あらためて気づかせてくれます。海に向かって表側を、意思を持ってさらしているようです。扉も窓も、疑うことなくそうしています。一列に並んだ同じような大きさの家々の姿が、目に見えるようです。この句に惹かれたのは、ものを創ろうとする強引な作為が、見えなかったからです。家も、海も、月も、静かに句に導かれ、収まるところに収まっています。作り上げようとするこころざしは、それをあからさまに悟られてはならなのだと、この句は教えてくれているようです。家々が海に向かっているのは、海と対峙するためではなく、生活のほとんどが海との関わりから成り立っているためなのでしょう。朝起きればあたりまえのように海へ向かい、日の入りとともに海から帰ってくる。単純ではあるけれども、生きることの厳かさを、その往復に感じることが出来ます。梅雨の間の月が、そんな人々の営みを、さらに明らかに照らしています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 1562009

 一鍬で盗みし水の音高し

                           遊田久美子

の「水盗む」も、使われなくなった季語の代表格だろう。しかし新しい歳時記にも、依然として「水番」の傍題で載せられている。昔の句を読む際の手引きになるからだ。昔といっても、掲句の場合はおそらく昭和三十年代くらいの作ではあるまいか。その頃まではまだ農事用水が貧弱だったので、水争いは各地で発生していた。日照りがつづくと、田の水が干上がってくる。水を平等に確保するために、農民同士いろいろな約束を結んではいたけれど、それを無視して夜陰に乗じ、自分の田に水を引き入れるのが「水盗む」だ。そうはさせじと見張りを置く。これが「水番(みずばん)」。いくら約束事があっても、自分の田の水がなくなってきたら、どうにかしたくなるのは当たり前だ。そのままにしておけば、秋の収穫は望めない。やむなく作者は夜中こっそり田に出ていって、ほんの「一鍬」だけ入れて、畔の隅の方に小さな水路を作った。途端に水が注ぎ込みはじめたのだが、あたりの静寂を破るほどの轟音に聞こえたと言うのである。昼間だったら、ちょろちょろ程度の音だろう。水泥棒という後ろめたさが伴うので、作者は心臓が破裂しそうになっている。年に一度の収穫しかできない稲作仕事は、ある意味で博奕商売である。負けたら、確実に飢えが待っている。それを避けるためには、他人の水にだって手を付けなければならぬ。この国の農業は、一方でそんな暗い歴史を背景につづいてきた。私と同世代の作者の家は代々の農家だそうで、進学の希望もかなえられなかった経歴を持つ。元農家の子の心にも、深く沁み入ってくる作品である。『鎌祝』(2009)所収。(清水哲男)


June 1662009

 人間に呼吸水中花に錘

                           石母田星人

る記念会のお土産のために、水中花をまとめ買いしたことがある。小さなグラスのなかで軽やかに広がる可愛らしい造花としか想像していなかった手に届いたそれらは、ずっしりと思いもよらぬ重量だった。水のなかで揺らめく優美な姿が、錘でつなぎとめられていることをすっかり忘れていたのだ。掲句では肝心なものとして呼吸と錘をそれぞれ並べているのだが、ふとある本に「人間は空気の層の底辺で這うようにして生きている」と書かれていたことを思い出した。地上は、見方を変えれば空気の底でもあるのだという事実に愕然としたものだが、掲句であっさりと呼吸と錘が並記されてことにより、人間も深く息を吐かなければ、実は浮き上がってしまう心もとない生きもののように思えてきた。折しも各地で空からおたまじゃくしが降ってきたという不思議なニュース。うっかり呼吸を忘れてしまったおたまじゃくしたちが、まるで音符を連ねるようにぷかりぷかりと雲に吸い込まれてしまったのかもしれない。白い画用紙を広げたような梅雨の空を見あげながら、大きく丁寧に息をしてみる。『膝蓋腱反射』(2009)所収。(土肥あき子)


June 1762009

 海月海月暗げに浮かぶ海の月

                           榎本バソン了壱

水浴シーズンの終わり頃になるとクラゲが発生して、日焼けした河童たちも海からあがる。先日(5月下旬)東京湾で、岸壁近くに浮かぶクラゲを二つほど見つけた。「海月」はクラゲで「水母」とも書く。ミズクラゲ、タコクラゲ、食用になるのがビゼンクラゲ。近年はエチゼンクラゲという、漁の妨害になる厄介者も大量発生する。掲出句は海水浴も終わりの時節、暗い波間に海月がいくつも浮かんで、まるで海面を漂う月を思わせるような光景である。実際の月が映っているというよりも、ふわふわ白く漂う海月を月と見なしている。解釈はむずかしくはないが、「海月(くらげ)」と「暗げ」は了壱得意のあそびであり、K音を四つ重ねたのもあそびごころ。「海の月」と「天の月」をならべる類想は他にもあるが、ここはまあそのあそびごころに、詠む側のこころも重ねて素直にふわふわと浮かべてみたい。了壱は「句風吹き根岸の糸瓜死期を知る」というあそびごころの句にも挑戦して、既成俳壇などは尻目に果敢に独自の「句風」を吹きあげつづけている。かつて、芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」を、得意のアナグラムで「腿(もも)が露サドの縄目の痕(あと)付くや」というケシカランあそびで、『おくのほそ道』の句に秘められた暗号の謎(?)をエロチックに解明してみせて、読者を驚き呆れさせた才人である。そう、俳句の詩嚢は大いにかきまわすべし。『春の画集』(2007)所収。(八木忠栄)


June 1862009

 焼酎と鉄腕アトムの模型かな

                           瀬戸正洋

の前にあるものを並べて書いた俳句に思えるが、読んだあと物憂い印象が残る。焼酎のそばに置いてある古ぼけた鉄腕アトムのプラモデル。とある酒場の薄暗いカウンターでそれらをぼんやり眺めている作者に気持ちを重ねると「かな」の詠嘆に込められた孤独が響いてくる。「親殺し子殺し地雷と筍と」「拉致と核と餓死と憎悪と朧月」など並びの強烈なのも多々あるが、時事俳句など利いた風な名で括りたくはない。ひとつひとつの言葉は重いのに、強く主張してくるものを感じさせないのはなぜだろう。かといって現実を突き放して傍観しているわけでもない。作者独自の立ち位置でさんざんな現実と季語を等価に並べ、読む側に説明しがたいむず痒さと、静かなゆさぶりをかけてくるようだ。句集とともに収録された論も面白く読み応えのある一冊だった。『A』(2009)所収。(三宅やよい)


June 1962009

 それは少し無理空蝉に入るのは

                           正木ゆう子

句をつくる上での独自性を志す要件はさまざまに考えられるが、この短い形式における文体の独自性は究極の志向といっていいだろう。優れた俳人も多くは文体の問題はとりあえず手がつかない場合が多い。自由律でもない限り575基本形においてのバリエーションであるから、オリジナルの余地は極端に少ないと最初から諦めているひとがほとんどではないか。否な、自由律俳句といえど尾崎放哉のオリジナル文体がその後の自由律の文体になった。自由といいながら放哉調が基本になったのである。内容の新と同時に器の新も工夫されなければならない。この句の器は正木さんのオリジナルだろう。33255のリズムの器。「無理」の言い方が口語調なのでこの文体が成立した。その点と魅力をもうひとつ。「少し」がまぎれもない「女」の視点を感じさせる。男はこの「少し」が言えない。オリジナルな「性」の在り方も普遍的な課題である。『夏至』(2009)所収。(今井 聖)


June 2062009

 アロハ着て竜虎の軸を売り余す

                           木村蕪城

ロハシャツといえば、以前は原色で派手で映画でヤクザが着ている、というイメージだった。この句はヤクザというより香具師か。くわえ煙草で、売れ残ったなんとなくあやしい軸を前に、ちっ、とか言ってそうだ。売れ残る、ではなく、売り余す、という表現が、暑かった日中と、夕焼けのやりきれない赤を思わせる。歳時記の解説によると、アロハシャツは終戦後夏服として爆発的に流行したという。最近は、ハワイの正装、といったイメージの方が強いかもしれないが、夏服として渋い色合いのアロハシャツをうまく着こなしている人も見かける。今年八十四歳の父は、今でも週二回仕事で外出するが、通勤時は一年を通じて白い長袖ワイシャツ、ちょっと出かける時はゴルフのポロシャツ、家にいる時はパジャマ、の生活が続いていた。それが数年前、ハワイに旅行した際、「似合うんじゃない」の孫の一言で、アロハシャツを一枚購入。ブルーが基調の渋めの柄である。長身で色黒の父がそれを着ると、どこから見ても日系二世、ハワイの街にとけこんでいたが、今では夏の一張羅、着心地がよいのだそうだ。明日の父の日、近所の天麩羅屋にアロハを着て出かけることになるかもしれない。『新日本大歳時記 夏』(2000・講談社)所載。(今井肖子)


June 2162009

 甚平ややがての日まで腕時計

                           遠藤梧逸

語は「甚平」、夏です。言葉としては知っており、もちろんどんなものかも承知していますが、持ってはいません。人間ドックに行ったときに、似たようなものを着たことがあるだけです。たぶん一生、着ることはありません。特に甚平を毛嫌いする理由があるわけではありません。しかし、全体から感じられる力の抜け方に、どうも違和を感じるのです。そんなに無理してリラックスなどしたくないと、思ってしまうのです。今日の句の中で甚平を着ている人も、だいぶ力が抜けています。おそらく老人です。若い頃にさんざん緊張感に満ちた日々をすごした後に、恩寵のように与えられたおだやかな老後を過ごしているようです。腕時計をしているから、というわけではないけれども、その穏やかな日々にも、時は確実に刻まれ、ゆくゆくは「やがての日」にたどり着きます。この句、読み終えた後でちょっとつらくもなります。「甚平」というよりも、残る歳月をゆったりと羽織っている、そんな感じがしてきます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 2262009

 山椒魚あらゆる友を忘れたり

                           和田悟朗

椒魚と聞けば、井伏鱒二の短編を思い出す。近所の井の頭自然文化園別館に飼育されているので、たまに見に行くが、いつも井伏の作品を反芻させられてしまう。この国では、本物の山椒魚よりも、井伏作品中のそれのほうがポピュラーなのかもしれない。この句を読んだ時にも、当然のように思い出した。作者にしても、おそらく井伏作品が念頭にあっての詠みだろう。文学、恐るべし。谷川にできた岩屋を棲家としている山椒魚は、ある日突然、その岩屋の出口から外に出ることができなくなるほど大きくなってしまっていることに気づく。大きくなった頭が、岩屋の出口につっかえてしまうのである。孤独地獄のはじまりだ。そこでついには、岩屋の中に入り込んできた蛙を自分と同じ境遇にしてしまえと考えて、閉じ込めてしまう。彼らのその後の運命については、書かれていないのでわからない。しかし、たぶんその蛙は先に死んでしまい、その後の山椒魚は孤独の果てに、ついには世俗へのあらゆる関心を失って行く。ただ、ぼおっとしていて、ほとんど身じろぎすらもしない存在と化してしまう。そのことを「あらゆる友を忘れたり」と一言で表現した作者の想像力は深くて重い。なんという哀しい言葉だろうか。今度山椒魚を見る時には、私はきっとこの句を思い出すにちがいない。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 2362009

 あにいもとわかれわかれよさくらんぼ

                           吉岡桂六

くらんぼは「桜ん坊」。「甘えん坊」や「朝寝坊」などと同様の親しみの接尾語を持つ、唯一の果実である。現実はともかく、イラストでは必ず二つひと組が基本で描かれるというのも、可愛らしく思う気持ちが働いているように思われる。掲句は、二つつながりのさくらんぼの一つを口に入れたとき、仲良しの兄妹を引き裂いてしまったような罪悪感がふっと生まれたのだろう。すべてを平仮名表記にすることで、赤黒いアメリカンチェリーではなく、きらきらと光る清々しい鮮紅色を思わせ、またふっくらした幼い日々を彷彿させる。桜の花がそうであるように、さくらんぼも収穫時には複数個が連なって結実しているが、箱入れの状態で花枝ごとに切り離し、ひと粒ごとにサイズ決定をするという。この作業にも掲句の気持ちが終始よぎっているのではないか。まるで意地悪な継母になったように、兄妹たちをばらばらにしていく。「ヘンゼルとグレーテル」「青い鳥」「白鳥の王子」など、童話で登場する兄と妹は、どれも困難を乗り越える永遠のモチーフであった。『若き月』(2009)所収。(土肥あき子)


June 2462009

 梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに

                           横光利一

来「梅雨晴れ」は、梅雨が明けて晴れの日がつづくという意味で使われたらしいが、変わってきたのだという。つまり梅雨がつづいている間に、パッと晴れる日があったりする、それをさしている。掲出句もまさにそうした一句であろう。鬱陶しい梅雨がつづいている間は、あまり外出する気にもなれない。所在なく寝ころがって手枕(肘枕)して、雑誌でも開いていたのか、ラジオを聴いていたのか、それともやまず降る窓外の雨を眺めていたのか。……長い時間そんな無理な姿勢をしていたので、腕が痛いし、骨がきしんで悲鳴をあげる。そうした自分に呆れているといった図であろうか。畳の間にのんびり寝ころがって、そのような姿勢をつづけてしまうことだってある。浴衣かアンダーシャツ姿で、だらしなくごろりとして無聊を慰めるひとときは、一種の至福の時間でもある。覚えがあるなあ。「骨鳴るままに」と詠んだところに、自嘲めいたアイロニーが読みとれる。利一は門下生を集めた「十日会」で俳句を唱導し、「俳句は小説の修業に必要だ」とまで言って、自らも多くの俳句を残した。夏の句に「日の光り初夏傾けて照りわたる」「静脈の浮き上り来る酷暑かな」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2562009

 夏座敷父はともだちがいない

                           こしのゆみこ

年梅雨が終わると、祖母は座敷の襖を取り払って簾を吊り下げた。すっかり片づいた座敷の真ん中を涼しい風がさぁっと吹き抜けてゆくのはいかにも夏らしくて気持ちがよかった。夏座敷や打ち水といった季節の風物と縁遠いマンション暮らしの今は、思い出のなかにある風景を懐かしんでいる。そんな夏座敷の真ん中に父が一人で座っている。「父は」と言っているところからそれぞれに友達がいるほかの家族と比べているのだろう。おしゃべりな母はご近所の人たちと、かしましい娘たちも友達とたわいもない話に興じながら日々を暮らしているのかもしれない。寡黙な父はそれを羨むでもなく、一人でひっそり静かな日常を過ごしているのだろう。風通しの良い夏座敷が父の孤独をくっきりと印象付けている。「昼寝する父に睫のありにけり」「蜻蛉にまざっていたる父の顔」など、家族の中で少し寂しげだけど、かけがえのない父の姿を愛情を持って描き出している。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)


June 2662009

 捕虫網白きは月日過ぎやすし

                           宮坂静生

モは水中に差し入れて魚などを掬う。こちらの簡略なものは子供の小遣いでも買えたが、捕虫網は柄が長く袋の部分が大きくて網目が細かくできているので比較的高価。小遣いで買うのは大変だった。振り回して破れると母に繕ってもらう。何度も繕っているうちに捕虫網はだんだん小さくなっていった。捕虫網の細かい網目を通して見えてくる故郷はいつも夏の風景だ。自分が子供だったころ、玄関の傘立てなんかに捕虫網はいつもさされてあり、長じて、自分が子供を育てるようになってからは子供の捕虫網が替わりに傘立てにささっていた。捕虫網から捕虫網へ。網目の白から見えてくる風景は永遠に夏だ。『現代の俳人101』(2004)所収。(今井 聖)


June 2762009

 雨傘に入れて剪る供花濃紫陽花

                           笹川菊子

年の紫陽花は色濃い気がしませんか、と幾度か話題になる。東京は梅雨らしい天気が続いているのでそう思うのかもしれないが、確かに濃い青紫の紫陽花の毬が目をひく。本棚の整理をしながら読んでいた句集にあったこの句、雨傘、に目がとまった。雨は雨粒、傘は水脈を表し、共に象形文字だというが、見るからに濡れてるなあ、そういえばこの頃あまり使わない言葉だけど、と。庭を見ながら、紫陽花を今日の供花にと決めた時から、その供花に心を通わせている作者。その心情が、雨傘に入れる、という表現になったのだろう。もう濡れてしまっているけれど、だからこそ滴る紫陽花の色である。作者の甥の上野やすお氏がまとめられたこの句集には、星野立子一周忌特集の俳誌『玉藻』(昭和六十年・三月号)に掲載された文章が収められている。朝日俳壇選者であった立子の秘書として、立子と、同時期に選者であった中村草田男、石田波郷との和やかな会話など書かれている興味深い文章の最後は、「お三人の先生は、もうこの世には在さないのである。」の一文でしめくくられていた。『菊帳余話』(1998)所収。(今井肖子)


June 2862009

 蠅とんでくるや箪笥の角よけて

                           京極杞陽

語は「蝿」、夏です。そう言えば昔は、蝿と共に生きていたなあと思い出します。飴色の蝿取紙は、いつも部屋の電気のスイッチの紐に結ばれていて、吹く風に優雅に揺れていました。新しいものと取り替えるときに、要領が悪くて服にべたりとついてしまうこともありました。そんな経験、もうすることはないのだなと思えば、妙な寂しささえ感じます。テレビでたまに、顔に何匹もの蝿をたからせて平然と遊んでいるよその国の子供を見るにつけ、あんなふうに自分もあったのだと、あらためて思い出しもするわけです。句は、そんな蝿の飛んでいるところを目で追っています。勢いよく飛んできた蝿が、箪笥の角にぶつかる寸前に身をよけて、別方向へ飛んでゆきます。蝿にも立派な目があるのだから、当たり前といえばあたりまえではありますが、「よけて」の一語が、ひそやかに身を斜めに傾ける人の姿と、重なってきます。蝿というもの、どんな意識を持って、どこまでこの世をわかって飛んでいるのかと、つい余計なことを考えてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 2962009

 「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ

                           金子兜太

年の盟友であった原子公平(はらこ・こうへい)への追悼句五句のうち。命日は2004年7月18日、84歳だった。一句目は「黄揚羽寄り来原子公平が死んだ」だ。この口語体が兜太の死生観をよく表しており、掲句にもまたそれがくっきりと出ている。作者をして語らしめれば、死についての考えはこうである。「人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない」。だから「夕べに白骨」(蓮如)などと死を哀れみ悲しんで、冷や酒で一時の気持ちを紛らわすことを、オレはしないぞと言うのである。他者の死を、そのまま受け取り受け入れる潔い態度だ。年齢を重ねるにつれて、人は数々の死に出会う。出会ううちに、深く考えようと考えまいと、おのずからおのれの死生観は固まってくるものだろう。そこから宗教へとうながされる人もいるし、作者のようにいわば達観の境地に入ってゆく人もいる。おこがましいが、私は死を消滅と考える。麗句を使えば、死は「自然に還ること」なのだと思う。したがって、私もふわふわしていた若い頃とは違い、あえて冷や酒を飲んだりはしなくなった。死についての考えは違っても、この句の言わんとするところはよく理解できるつもりだ。『日常』(2009)所収。(清水哲男)


June 3062009

 青梅雨や櫂の届かぬ水底も

                           高柳克弘

梅雨という言葉は、俳句を始めるずっと以前に永井龍男の小説で知った。ある雨の日のできごとを淡々と綴るこの作品は、いつ読み返しても、平明な言葉のかたまりが、突如人間の肉体と表情を持ってそこにあらわれる。掲句でも、中七の「櫂」が、まるで水中に伸ばした腕の、開いた五指の、さらにもっと先をまさぐるような感触を思わせ、うっとりと、少し気味悪く、水の底の景色を見せている。そして、おしまいにそっと置かれた「水底も」の「も」に、この世のあらゆるものが濡れ濡れと雨に輝いている様子につながる。質のよい一節は時折、見えないものを手にとるように見せてくれる。青々と茂る葉を打つ梅雨の雨は、路上を打ち、水面を打ち、ぐっしょりと水底を濡らしている。降り続く雨のなか、小さな傘の内側で濡れない自分をどうにも居心地悪く思うことがある。小説のなかで会話する家族より、櫂の届かない水底より、ずっと不自然な場所に立たされているかのように、ふわふわと足元がおぼつかなくなる。〈噴水の虹くぐりては巣作りす〉〈巻貝は時間のかたち南風〉『未踏』(2009)所収。(土肥あき子)




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