濡れた傘を玄関の外にたてかけておいたら、あっという間に失敬された。怒。(哲




2009ソスN5ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3152009

 物申の声に物着る暑さかな

                           横井也有

申(ものもう)と読みます。今なら「ごめんください」とでもいうところでしょうか。いえ、今なら呼び鈴のピンポンなのでしょう。マンション暮らしの長い私には、人が声をあげて訪ねてくる場面には、ほとんど出くわしません。子供たちが小さな頃でさえ、「遊びましょ」という呼びかけを、聞いたことがありません。訪ねてきた人は、子供であろうと大人であろうと、いつも同じ大きさの「ピンポン」です。そこには特段の思い入れが入る余地はありません。この句を読んで思ったのは、「普段着」のことでした。昔はたしかに、家の中にいるときには夏でなくてもひどい格好をしていました。国ぜんたいが貧しかった頃ですから、子供だったわたしはそれほど気にしていませんでしたが、思い出せばいつも同じの、きたない服を着ていました。夏はもちろん冷房などはなく、この句にあるように、暑さに耐えるためには服を脱ぐしかありませんでした。今は真夏でも、人が訪ねてくればともかく、すぐに会える姿をしています。それがあたりまえのことではなかったのだと、この句はあらためて思い出させてくれます。一瞬の動作と、時代を的確に描ききっています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 3052009

 麦秋の縮図戻して着陸す

                           藤浦昭代

は夏に実りの季節を迎えるので、麦秋(ばくしゅう・むぎあき)は夏季。陰暦四月の異称でもあるという。二十年近く前、一面の麦畑に北海道で出会ったことがある。確か夏休みで7月だった。黄金色のからりとした風と草の匂いに、あ〜麦酒が飲みたい、と連想はそちらに行ってしまったが、風景ははっきり記憶にある。掲出句の作者は、ところどころに麦畑がある街から、初夏の旅に出たのだろう。少し傾きながら離陸する窓の中、みるみるうちに小さくなる家や畑。見渡す限りの緑に囲まれて、あちこちに光る麦畑が、遠くなるほどいっそうくっきり見える。上空からならではの、その離陸の時の感動を抱えたまま旅を終え、無事に着陸。縮図を戻しながら、色彩のコントラストと、何度体験しても慣れない着陸時のスリリングな心持ちを体感した。『ホトトギス新歳時記』(1986・三省堂)所載。(今井肖子)


May 2952009

 爆笑せしキャンプファイアーの跡と思ふ

                           加倉井秋を

ャンプ地で焚火の痕跡があればキャンプファイアーの跡だと思うのは当然。そんなのは発見でも何でもない。この句は「爆笑せし」という捉え方に詩の核心がある。爆笑せしはキャンプファイアーにかかるけれど、キャンプファイアーは跡にかかっているから爆笑せしは詰まるところ跡にかかる。爆笑せし跡。つまり作者は焚火の痕跡をみて爆笑の声を思っているのである。焚火跡は視覚。臭いもするから嗅覚も混じる。爆笑は聴覚。つまりこの句は視覚と嗅覚を入口にして聴覚に到る。人間の五感の即時的な反応がそのまま言葉に載せられている。これを機智と見るのは少し違う。「知」よりも「感覚」が優先される。しかも三つの別次元の感覚を力技でひとつにまとめ「思ふ」に引き込むのは「知」を超えた才能そのもの。角川書店編『第三版俳句歳時記』(2004)所収。(今井 聖)




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