「國文學」(學燈社)来月休刊。お得意先は国語の先生だったようだけれど。(哲




2009ソスN5ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3052009

 麦秋の縮図戻して着陸す

                           藤浦昭代

は夏に実りの季節を迎えるので、麦秋(ばくしゅう・むぎあき)は夏季。陰暦四月の異称でもあるという。二十年近く前、一面の麦畑に北海道で出会ったことがある。確か夏休みで7月だった。黄金色のからりとした風と草の匂いに、あ〜麦酒が飲みたい、と連想はそちらに行ってしまったが、風景ははっきり記憶にある。掲出句の作者は、ところどころに麦畑がある街から、初夏の旅に出たのだろう。少し傾きながら離陸する窓の中、みるみるうちに小さくなる家や畑。見渡す限りの緑に囲まれて、あちこちに光る麦畑が、遠くなるほどいっそうくっきり見える。上空からならではの、その離陸の時の感動を抱えたまま旅を終え、無事に着陸。縮図を戻しながら、色彩のコントラストと、何度体験しても慣れない着陸時のスリリングな心持ちを体感した。『ホトトギス新歳時記』(1986・三省堂)所載。(今井肖子)


May 2952009

 爆笑せしキャンプファイアーの跡と思ふ

                           加倉井秋を

ャンプ地で焚火の痕跡があればキャンプファイアーの跡だと思うのは当然。そんなのは発見でも何でもない。この句は「爆笑せし」という捉え方に詩の核心がある。爆笑せしはキャンプファイアーにかかるけれど、キャンプファイアーは跡にかかっているから爆笑せしは詰まるところ跡にかかる。爆笑せし跡。つまり作者は焚火の痕跡をみて爆笑の声を思っているのである。焚火跡は視覚。臭いもするから嗅覚も混じる。爆笑は聴覚。つまりこの句は視覚と嗅覚を入口にして聴覚に到る。人間の五感の即時的な反応がそのまま言葉に載せられている。これを機智と見るのは少し違う。「知」よりも「感覚」が優先される。しかも三つの別次元の感覚を力技でひとつにまとめ「思ふ」に引き込むのは「知」を超えた才能そのもの。角川書店編『第三版俳句歳時記』(2004)所収。(今井 聖)


May 2852009

 浮苗に記憶はじめの夕日射

                           宮入 聖

か三島由紀夫が産湯につかった盥のふちが金色に光るのを覚えていると『仮面の告白』に書いていたように思う。自分自身の「記憶はじめ」を遡ってみると、親から繰り返し聞かされた話や古ぼけたアルバムの映像が入り混じってどれを「記憶はじめ」にしていいやら自信がない。ただ、記憶をたどるその先に夢と区別のつかないぐらい曖昧ではあるが、対象をはっきりと見ている自分が確かに感じられる。自他の区別なく渾然一体としていた世界が自分と外の世界にある距離感を生じることが「記憶はじめ」なのかもしれない。田植えが終わったあと、しっかりと根が固定されずに頼りなく浮いている苗にふと目をとめた作者。ほかの苗が整然と直立しているからこそ浮き沈みする苗に視線が釘付けになり、頭の中の記憶が揺らされるように思ったのだろう。田水を金色に光らす夕日射が記憶の隅に焼き付けられた浮苗と重なったのかもしれない。記憶はじめとする一枚の映像にその人の美意識が感じられる。『聖母帖』(1981)所収。(三宅やよい)




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