梅雨めいてきましたかね。昨年の関東甲信・近畿東海の入梅は6月2日でした。(哲




2009ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2952009

 爆笑せしキャンプファイアーの跡と思ふ

                           加倉井秋を

ャンプ地で焚火の痕跡があればキャンプファイアーの跡だと思うのは当然。そんなのは発見でも何でもない。この句は「爆笑せし」という捉え方に詩の核心がある。爆笑せしはキャンプファイアーにかかるけれど、キャンプファイアーは跡にかかっているから爆笑せしは詰まるところ跡にかかる。爆笑せし跡。つまり作者は焚火の痕跡をみて爆笑の声を思っているのである。焚火跡は視覚。臭いもするから嗅覚も混じる。爆笑は聴覚。つまりこの句は視覚と嗅覚を入口にして聴覚に到る。人間の五感の即時的な反応がそのまま言葉に載せられている。これを機智と見るのは少し違う。「知」よりも「感覚」が優先される。しかも三つの別次元の感覚を力技でひとつにまとめ「思ふ」に引き込むのは「知」を超えた才能そのもの。角川書店編『第三版俳句歳時記』(2004)所収。(今井 聖)


May 2852009

 浮苗に記憶はじめの夕日射

                           宮入 聖

か三島由紀夫が産湯につかった盥のふちが金色に光るのを覚えていると『仮面の告白』に書いていたように思う。自分自身の「記憶はじめ」を遡ってみると、親から繰り返し聞かされた話や古ぼけたアルバムの映像が入り混じってどれを「記憶はじめ」にしていいやら自信がない。ただ、記憶をたどるその先に夢と区別のつかないぐらい曖昧ではあるが、対象をはっきりと見ている自分が確かに感じられる。自他の区別なく渾然一体としていた世界が自分と外の世界にある距離感を生じることが「記憶はじめ」なのかもしれない。田植えが終わったあと、しっかりと根が固定されずに頼りなく浮いている苗にふと目をとめた作者。ほかの苗が整然と直立しているからこそ浮き沈みする苗に視線が釘付けになり、頭の中の記憶が揺らされるように思ったのだろう。田水を金色に光らす夕日射が記憶の隅に焼き付けられた浮苗と重なったのかもしれない。記憶はじめとする一枚の映像にその人の美意識が感じられる。『聖母帖』(1981)所収。(三宅やよい)


May 2752009

 ひねれば動く電気仕掛の俳句かな

                           小林恭二

句は思うように、満足のいく作品はなかなかできない。ひねってもたたいても、なかなか……。いっそ電気仕掛でポンとできあがる俳句というものがないものか。四苦八苦した挙句にできたのが掲出句かもしれない。シロウトはシロウトなりに、専門家は専門家なりに、そんな空想にあそぶこともあろう。苦しまぎれのわりにつらい句ではない。むしろユーモラスに仕上がっているのはさすがである。いや、四句八句して戯れながらできた俳句かもしれない。無季句だが、春夏秋冬を通じて電気仕掛を所望したい気持ちを読みとることができる。「電気仕掛」が懐かしい響きをともなって愉快ではないか。たしかに電気文化の時代があったよなあ。今どきなら「コンピューター仕掛」とでもなるのだろうけれど、二十年ほど前の作ゆえ「電気」。「電気仕掛」が切実でありながら、同時にユーモラスな電磁波を放っている。俳句は「詠む」とも「ひねる」とも言われる。世におびただしい俳句が日々量産されているけれど、「ひねれば動く電気仕掛」とは、飽くことなく量産されている俳句に対する、強烈なアイロニーを含んでいるようにも解釈できる。恭二の初期句集『春歌』には「遊戯する胸に皺ある怪獣よ」「はっきり言ふお前は異常な日時計だ」など、奔放な無季句がいくつもおどっている。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)




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