午後山の上ホテルで山本健吉賞贈賞式。このホテルとは随分つきあったなあ。(哲




2009ソスN5ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2652009

 今生を滝と生まれて落つるかな

                           岩岡中正

調な山の景色のなかで、ふいに水音が高まり、唐突に目の前が開ける場所。そこに滝はある。足元ばかり見続けていた視線が大きく動かされることや、清冽な自然の立てる轟音、そして正面から浴びる豊富なマイナスイオン効果もあいまって、五感のすべてが澄みわたる気分になっていく。掲句の「今生」とは、この世。滝を前にして、ひたむきに水を落し続ける滝に吸い込まれるように魅了される。岩間から湧いた清水であったことや、この先海を目指している水の生い立ちなど一切構わず、眼前の水とのみ対峙すれば、滝上から身を投げ、深淵に泡立つまでの距離が現世として迫ってくる。この一瞬こそが滝の一生。葛飾北斎の「諸国滝廻り」では8箇所の滝が描かれているが、流れ落ちる水の様子がひとつずつまったく違うのに驚かされる。あるものは身をくねらせ、またあるものは天空から身を踊らせる。そしてそのどれも大きな眼が隠された生きもののように見えてくる。北斎もまた、落ちる水にわが身を重ねるようにして描く魅入られた人であった。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


May 2552009

 水音は草の底より蛇苺

                           ふけとしこ

のように田舎で育った人間には、ごく当たり前の情景ではあるが、それだけにいっそうの郷愁を呼び起こしてくれる句だ。細い山道を歩いていたりすると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。周囲には雑草が繁茂しているので、小さな流れは「草の底」にあって見えないのである。そんな山道には、ところどころに「蛇苺」が真っ赤な実をもたげている。この苺は食べてはいけないことになっていたからか、路傍に鮮やかでもどこかよそよそしく見える。しかも私には、蛇苺は日を遮られた薄暗い場所を好むという印象があるので、情景は一種陰気な情感を醸し出す。それがかえって、もうほとんど忘れかけていたかつての自分のあれこれまでをも想起させることになった。この情景をいま、たとえばビデオカメラで撮影してくっきりと蘇らせることは可能だ。でも、それは句のようには郷愁につながってはいかないだろう。なぜなら、ビデオカメラには水の音や蛇苺の姿を忠実に再生する力はあっても、あくまでもそれは人為的に切り取った断片的な情報以上の情報をもたらさないからである。このあたりに、文芸の力がある。句はたしかに情景を切り取ってはいるのだけれど、しかし、それは切り取った情景以上の時間や空間をいっしょに連れて来るものだからだ。掲句にも、切り取られた情景よりもはるかに多量の情報がつまっている。この点を肯定しなければ、第一、俳句のような短い様式は根本から成立しなくなってしまう。言葉とは、面白いものである。最近、蛇苺を見ない。『インコに肩を』(2009)所収。(清水哲男)


May 2452009

 月に柄をさしたらばよき団扇かな

                           山崎宗鑑

崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者です。生計は主に「書」で立てていたということです。今日の句は、読んでいただければわかる通り、内容はしょうもないといえば確かにしょうもない。月に柄(え)を付ければ団扇(うちわ)のようだ、この暑い夜に涼やかな風を送ってくれないものか、とでもいう内容でしょうか。だれしも月を見上げて、ちょっと考えれば、似たような発想はいくらでも出てきます。串をさせば団子にも例えられ、障子にあけた覗き窓にも例えられる。今なら「子供の詩」にでも出てきそうな、単純で素朴な例えです。でも、そう言ってしまっては、宗鑑にも、今の子供にもたいへん失礼にあたるかもしれません。どれほど高邁な文学の発想であれ、つきつめれば月を団扇に見たてたものと、さほどの違いがあるわけではありません。珍しい発想ではないけれども、いえ、ありふれているからこそ個人にすっと入ってくるのです。どうしてこんなものに惹かれるのかという疑問をもちつつも、600年も昔に考えられたものからさほどに進歩していない自身の感性を、いとおしくも感じるわけです。卑俗に徹し、ともかく威張っていないところが、とても好ましく。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)




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