日銀景気判断「大幅に悪化」から「悪化を続けている」。これで上方修正かあ。(哲




2009ソスN5ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2352009

 万緑のひとつの幹へ近づきぬ

                           櫻井博道

京の緑を見て万緑を詠んじゃいけないよ、と言われたことがある。万の緑、見渡す限りの緑であるから、まあ確かにそうなのかもしれない。それでも、時々訪れる目黒の自然教育園など夏場は、これが都心かと思うほどの茂りである。どこかの島の、圧倒的な緑の森に迷い込んだような錯覚に陥りながら歩いていると、星野立子の〈恐ろしき緑の中に入りて染まらん〉の句を思い出す。「万緑」は、それだけで強い力を感じる言葉なので確かに、万緑や、などと言ってしまうと後が続かなくてただぼーっとしてしまって、なかなか一句になりにくい。そんな万緑も、大地に根を張った確かな一本一本の木からできている。森を来た作者の視線の先には今、一本の大樹の太い幹があるばかりだが、読者には、作者が分け入ってきた、それこそ万の緑がありありと見えてくる。ひとつの、の措辞が、万に負けない力を感じさせる。『図説俳句大歳時記 夏』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


May 2252009

 たべのこすパセリのあをき祭かな

                           木下夕爾

七の連体形「あをき」は下五の「祭かな」にかからずパセリの方を形容する。この手法を用いた文体はひとつの「鋳型」として今日的な流行のひとつとなっている。もちろんこの文体は昔からあったもので、虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」も一例。日の当たっているのは枯野ではなくて遠山である。独特の手法だが、これも先人の誰かがこの形式に取り入れたものだろう。こういうかたちが流行っているのは花鳥諷詠全盛の中でのバリエーションを個々の俳人が意図するからだろう。この手法を用いれば、掛かるようにみせて掛からない「違和感」やその逆に、連体形がそのまま下五に掛かる「正攻法」も含めて手持ちの「球種」が豊富になる。今を旬の俳人たちの中でも岸本尚毅「桜餅置けばなくなる屏風かな」、大木あまり「単帯ゆるんできたる夜潮かな」、石田郷子「音ひとつ立ててをりたる泉かな」らは、この手法を自己の作風の特徴のひとつとしている。夕爾は1965年50歳で早世。皿の上のパセリの青を起点に祭の賑わいが拡がる。映像的な作品である。『木下夕爾の俳句』(1991)所収。(今井 聖)


May 2152009

 愛鳥の週に最たる駝鳥立つ

                           百合山羽公

鳥週間の休日、御岳山の茶店の餌台に向日葵の種をつつきに来た山雀を見かけた。オレンジ色の胸が可愛い。バードウィークと言えば山雀や四十雀のように可憐な野鳥を思い浮かべるが、その視線をすっとはずして、飛べない駝鳥を登場させたところがこの句の眼目だろう。駝鳥は大きい。駝鳥の卵も大きい。肉の味が牛肉に似ているとかで駝鳥を飼育する牧場も生まれたようだけど、お尻をふりふり駆けてゆくあのユーモラスな姿を思い浮かべると食べるのはちょっとかわいそうな気がする。熱帯の土地でこの鳥がどんな生活を営んでいるのかよく知らないが、厳しい日差しと他の動物から卵を守るのに、オス、メス交代でじっと座って卵を暖めるらしい。大きくてやさしい駝鳥が鳥の最たるものとして立ち、うるんだ瞳で人間たちを見返している。『百合山羽公集』(1977)所収。(三宅やよい)




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