川越の実家を訪ねるついでに、春祭見物。たいそうな人出で賑わっていた。(哲




2009ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0652009

 落梅の多少の径や夏に入る

                           安西冬衛

時記の「立夏」には、傍題として「夏に入る」「今朝の夏」「夏来たる」等々がある。立夏は陽暦の5月6日頃とされる。つまり暦の上での夏は、今日あたりから立秋8月8日の前日頃までということになる。♪卯の花のにおう垣根にホトトギス……夏は来ぬ。掲出句では卯の花ではなくて落梅である。「梅」は春の季語だが、「落梅」は歳時記にはないようだ。「青梅」や「梅干す」となると夏。「落梅」には「散る梅の花」の意もある。けれども、ここでは「落ちた梅の実」の意である。梅の花につづいて桜の花も散りはてた新緑のこの時季、梅の木の下で見上げると、もうかわいい青梅が葉かげに幾粒も寄り合っている。季節の移り変わりと植物の律儀さには、改めて感心させられる。「径」はこみちとか山路などの意味がある。こみちを歩いていて、ふと梅の木の下にいくらかの梅の実がパラパラと落ちているのを発見して、思わず「ああ、もう夏か」という驚きを、今さらのように噛みしめているのである。「落梅」と「夏に入る」のとり合わせがとてもすがすがしい。安西冬衛と言えば、春に「韃靼海峡」を越えた「てふてふ」は、今頃どのあたりを飛んでいるのだろうか? どんな虫になったか?―――と想像をめぐらしてみたくなる。冬衛が残した俳句は少ないが、ほかに「喰積の減らでさびしき二日かな」という新年の句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0552009

 したたかに濡るる一樹やこどもの日

                           川村五子

日「こどもの日」。子供はいつ見ても濡れているように思う。お日さまの下、やわらかい髪を汗で貼りつけ、駆け回っているイメージがあるからだろうか。それはまるで、太陽を浴びることでスイッチが入り、汗をかくことで一ミリずつぐんぐんと成長しているかのように。掲句の一本の樹は健やかに発育する子供の象徴であり、そこにはそれぞれの未来へと向かうしなやかなまぶしい手足が見えてくる。強か(したたか)とは、人格を表すときには図太いとか狡猾など、長所として使われることはないが、一旦人間を離れ、自然界へ置き換えた途端に、その言葉はおおらかに解き放たれる。掲句の核心でもある「したたかに濡るる」にも、単に雨上がりの樹木を描くにとどまらず、天の恵みの雨に存分に浄められ、つやつやと滴りを光らせている枝葉が堂々と立ち現れる。初夏の鮮やかな木々が、世界を祝福していると感じられる甘美なひとときである。〈空容れてはち切れさうな金魚玉〉〈朝顔の全き円となりにけり〉『素顔』(2009)所収。(土肥あき子)


May 0452009

 にんげんに吠える草あり春の山

                           鈴木光彦

語「春の山」といえば、春風駘蕩、まことにおだやかなたたずまいの山をイメージさせる。たいていの句は、そのようなイメージから作られてきた。だが、作者はそんな常識的なイメージを踏まえつつも、山という自然はそうそう人間の都合の良い解釈や見立てどおりにはならないことを知っている。一見やわらかくおだやかな色彩で私たちを招くかのごとき春の「草」のなかにも、突然「吠えかかって」くるような凶暴さを示す草だってあるのだ。とりわけて他に誰もいない山中にあるときなど、少し強い風が出てくると、丈の高い雑草の群れがざわあっという感じで揺れる様子には、どこか不気味な恐さを感じるものだ。「にんげん」の卑小を感じる一瞬である。「そよぐ」という言葉には、漢字で「戦ぐ」と当て、「戦」には「おそれおののく」の意もあって、これはそういう意識につながっているのかもしれない。その意味からも、掲句は既成の季語に対する反発、吠えかかりなのであるが、山をよく見て詠んだ至極忠実な写生句ともなっている。句作りで安易に季語に寄り掛かるなという警鐘としても、拳拳服膺する価値があるだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研研究)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます