忌野清志郎没。私の古巣「FM東京」をコケにした歌もあったっけ。合掌。(哲




2009ソスN5ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0452009

 にんげんに吠える草あり春の山

                           鈴木光彦

語「春の山」といえば、春風駘蕩、まことにおだやかなたたずまいの山をイメージさせる。たいていの句は、そのようなイメージから作られてきた。だが、作者はそんな常識的なイメージを踏まえつつも、山という自然はそうそう人間の都合の良い解釈や見立てどおりにはならないことを知っている。一見やわらかくおだやかな色彩で私たちを招くかのごとき春の「草」のなかにも、突然「吠えかかって」くるような凶暴さを示す草だってあるのだ。とりわけて他に誰もいない山中にあるときなど、少し強い風が出てくると、丈の高い雑草の群れがざわあっという感じで揺れる様子には、どこか不気味な恐さを感じるものだ。「にんげん」の卑小を感じる一瞬である。「そよぐ」という言葉には、漢字で「戦ぐ」と当て、「戦」には「おそれおののく」の意もあって、これはそういう意識につながっているのかもしれない。その意味からも、掲句は既成の季語に対する反発、吠えかかりなのであるが、山をよく見て詠んだ至極忠実な写生句ともなっている。句作りで安易に季語に寄り掛かるなという警鐘としても、拳拳服膺する価値があるだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研研究)所載。(清水哲男)


May 0352009

 日をたたむ蝶の翅やくれの鐘

                           望月宋屋

は「つばさ」と読みます。句を読んでまず目に付いたのが「たたむ」の文字でした。今更とは思うものの、手元の辞書を引けば「たたむ」の意味は、「広げてある物を折り返して重ねる。折って小さくまとめる。」とあります、なんだか辞書の説明文がそのまま詩になってしまいそうな、詩歌向きのきれいな語です。望月宋屋(そうおく)の生きていた江戸期にも、「たたむ」は今のようなひそやかさをたたえた語だったのでしょうか。少なくともこの句に使われている様子から想像するに、数百年の時の流れは、語の姿になんら影響を与えることはなかったようです。「日をたたむ」の「たたむ」は「店をたたむ」のように「やめてしまう」の意味。もちろん「たたむ」は「蝶の翅をたたむ」ことにも通じていて、こちらは「すぼめる」の意味でしょうか。さらにくれの鐘の音が「日をたたむ」にもかかってきて、きれいな言葉たちは句の中で、何重にも手をつなぎあっています。そうそう、「心にたたむ」という言葉もありました。もちろん意味は、「好きな人を心の中に秘めておく」という意味。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 0252009

 お祈りをして遠足のお弁当

                           山田閏子

ただしく始まった新学期も、オリエンテーション、新入生歓迎会、遠足などを経て、ゴールデンウィークで一息。つい数日前も、真新しい黄色い帽子が二人ずつ手をつなぎ、あとからあとから曲がり角からあふれてきた。千代田区の小学校も結構人数が多いなあ、と思いながら、小さいリュックの背中を見送ったが、そんな遠足の列を詠んだ句はよく見かける。この句は、最大の楽しみであるところのお弁当タイム。ミッション系のおそらく一年生で、さほど大人数ではないだろう。芝生の上に思い思いに坐って開いたお弁当を前に、日頃そうしているように小さい手を合わせ、お祈りの言葉をつぶやいてから、大きく「いただきます」。かわいい。描かれているのは、日差しや草の匂い、囀りに似たおしゃべりと笑い声、それを見ている作者の幸せ。お祈り、お弁当、二つの丁寧語があたたかい。句集のあとがきに、「平凡な主婦の生活の中で、俳句に佇んでいる自分自身を見つけることができた」とある。俳句との関わり方も句作態度も、こうあらねばならない、ということはない、それぞれだと思う。『佇みて』(2008)所収。(今井肖子)




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