鯉幟には山陰の黒っぽい緑がいちばんよく似合う。とは、草森紳一の名言だ。(哲




2009ソスN5ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0352009

 日をたたむ蝶の翅やくれの鐘

                           望月宋屋

は「つばさ」と読みます。句を読んでまず目に付いたのが「たたむ」の文字でした。今更とは思うものの、手元の辞書を引けば「たたむ」の意味は、「広げてある物を折り返して重ねる。折って小さくまとめる。」とあります、なんだか辞書の説明文がそのまま詩になってしまいそうな、詩歌向きのきれいな語です。望月宋屋(そうおく)の生きていた江戸期にも、「たたむ」は今のようなひそやかさをたたえた語だったのでしょうか。少なくともこの句に使われている様子から想像するに、数百年の時の流れは、語の姿になんら影響を与えることはなかったようです。「日をたたむ」の「たたむ」は「店をたたむ」のように「やめてしまう」の意味。もちろん「たたむ」は「蝶の翅をたたむ」ことにも通じていて、こちらは「すぼめる」の意味でしょうか。さらにくれの鐘の音が「日をたたむ」にもかかってきて、きれいな言葉たちは句の中で、何重にも手をつなぎあっています。そうそう、「心にたたむ」という言葉もありました。もちろん意味は、「好きな人を心の中に秘めておく」という意味。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 0252009

 お祈りをして遠足のお弁当

                           山田閏子

ただしく始まった新学期も、オリエンテーション、新入生歓迎会、遠足などを経て、ゴールデンウィークで一息。つい数日前も、真新しい黄色い帽子が二人ずつ手をつなぎ、あとからあとから曲がり角からあふれてきた。千代田区の小学校も結構人数が多いなあ、と思いながら、小さいリュックの背中を見送ったが、そんな遠足の列を詠んだ句はよく見かける。この句は、最大の楽しみであるところのお弁当タイム。ミッション系のおそらく一年生で、さほど大人数ではないだろう。芝生の上に思い思いに坐って開いたお弁当を前に、日頃そうしているように小さい手を合わせ、お祈りの言葉をつぶやいてから、大きく「いただきます」。かわいい。描かれているのは、日差しや草の匂い、囀りに似たおしゃべりと笑い声、それを見ている作者の幸せ。お祈り、お弁当、二つの丁寧語があたたかい。句集のあとがきに、「平凡な主婦の生活の中で、俳句に佇んでいる自分自身を見つけることができた」とある。俳句との関わり方も句作態度も、こうあらねばならない、ということはない、それぞれだと思う。『佇みて』(2008)所収。(今井肖子)


May 0152009

 歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず

                           加藤楸邨

あ、まさしく楸邨の世界だ。句の世界のここちよい、整った「完成度」など最初から度外視。薔薇にまつわる従来のロマンの世界も一顧だにされない。薔薇嗅ぐ、薔薇抱く、薔薇剪る、薔薇渡す、薔薇挿す、薔薇買う…僕らは薔薇のこれまでの集積した情緒を利用し、そこにちょっとした自分をトッピングしようとする。その根性がもうだめなんだとこのものすごい失敗作は教えてくれる。五感を動員して得られたその瞬間の「自分」をどうしてもっと信頼しない。そこが無くしてどうして自己表現、ひいては自分の生の刻印があろうか。楸邨は眼前の薔薇を実感するためについには薔薇を口に入れて「うまからず」とまで言わねば気すまない。一般性、共感度、日本的美意識。そんなものは鼻っから考えてもいない。それらがあたまの隅にあったとしても、対象から得られる自分だけの「実感」が最優先だ。こういう句を俳諧の「滑稽」で読み解こうとするひとがいたらヘボだ。『吹越』(1976)所収。(今井 聖)




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