つづく上天気、しのび寄る新型インフルエンザ。とかくこの世はままならぬ。(哲




2009ソスN5ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0252009

 お祈りをして遠足のお弁当

                           山田閏子

ただしく始まった新学期も、オリエンテーション、新入生歓迎会、遠足などを経て、ゴールデンウィークで一息。つい数日前も、真新しい黄色い帽子が二人ずつ手をつなぎ、あとからあとから曲がり角からあふれてきた。千代田区の小学校も結構人数が多いなあ、と思いながら、小さいリュックの背中を見送ったが、そんな遠足の列を詠んだ句はよく見かける。この句は、最大の楽しみであるところのお弁当タイム。ミッション系のおそらく一年生で、さほど大人数ではないだろう。芝生の上に思い思いに坐って開いたお弁当を前に、日頃そうしているように小さい手を合わせ、お祈りの言葉をつぶやいてから、大きく「いただきます」。かわいい。描かれているのは、日差しや草の匂い、囀りに似たおしゃべりと笑い声、それを見ている作者の幸せ。お祈り、お弁当、二つの丁寧語があたたかい。句集のあとがきに、「平凡な主婦の生活の中で、俳句に佇んでいる自分自身を見つけることができた」とある。俳句との関わり方も句作態度も、こうあらねばならない、ということはない、それぞれだと思う。『佇みて』(2008)所収。(今井肖子)


May 0152009

 歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず

                           加藤楸邨

あ、まさしく楸邨の世界だ。句の世界のここちよい、整った「完成度」など最初から度外視。薔薇にまつわる従来のロマンの世界も一顧だにされない。薔薇嗅ぐ、薔薇抱く、薔薇剪る、薔薇渡す、薔薇挿す、薔薇買う…僕らは薔薇のこれまでの集積した情緒を利用し、そこにちょっとした自分をトッピングしようとする。その根性がもうだめなんだとこのものすごい失敗作は教えてくれる。五感を動員して得られたその瞬間の「自分」をどうしてもっと信頼しない。そこが無くしてどうして自己表現、ひいては自分の生の刻印があろうか。楸邨は眼前の薔薇を実感するためについには薔薇を口に入れて「うまからず」とまで言わねば気すまない。一般性、共感度、日本的美意識。そんなものは鼻っから考えてもいない。それらがあたまの隅にあったとしても、対象から得られる自分だけの「実感」が最優先だ。こういう句を俳諧の「滑稽」で読み解こうとするひとがいたらヘボだ。『吹越』(1976)所収。(今井 聖)


April 3042009

 風ぐるま昭和の赤いセルロイド

                           高橋 龍

はもうめったに見かけないが、昭和30年生まれの私にとってセルロイドは身近なものだった。色はきれいだけど表面は弱くて、強くぶつけるとぺこんと内側にへこんでもとに戻らなかった。人形、筆箱、ああそう言えば、くるくる回る風車の羽根もセルロイドだった。昭和と言っても幅が広くて思い出も様々だろうけど、およそ半世紀前の暮らしの記憶は暗く湿っていて、あまり戻りたくはない。それでも掲句を読んで小さいとき風車に持っていた感情を懐かしく思い出した。色とりどりの風車は賑やかなお祭りに結びついていて心が弾む。セルロイドのお面も風車も憧れだったけど、握りしめた50円を使うのが惜しくて買わなかった。派手な色の少なかった時代に鮮やかな赤は特別の色。過ぎ去った日への郷愁を誘いつつ風車は回り続ける。セルロイドは燃えやすいという欠点があるため今はほとんど作られていないと聞くが、平成の風車は何で作られているのだろうか。「龍年纂・第七」(2009/04/15発行)所載。(三宅やよい)




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