イノチとカネ、どちらが大事か。各国の豚インフル対策に明瞭にあらわれる。(哲




2009ソスN5ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0152009

 歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず

                           加藤楸邨

あ、まさしく楸邨の世界だ。句の世界のここちよい、整った「完成度」など最初から度外視。薔薇にまつわる従来のロマンの世界も一顧だにされない。薔薇嗅ぐ、薔薇抱く、薔薇剪る、薔薇渡す、薔薇挿す、薔薇買う…僕らは薔薇のこれまでの集積した情緒を利用し、そこにちょっとした自分をトッピングしようとする。その根性がもうだめなんだとこのものすごい失敗作は教えてくれる。五感を動員して得られたその瞬間の「自分」をどうしてもっと信頼しない。そこが無くしてどうして自己表現、ひいては自分の生の刻印があろうか。楸邨は眼前の薔薇を実感するためについには薔薇を口に入れて「うまからず」とまで言わねば気すまない。一般性、共感度、日本的美意識。そんなものは鼻っから考えてもいない。それらがあたまの隅にあったとしても、対象から得られる自分だけの「実感」が最優先だ。こういう句を俳諧の「滑稽」で読み解こうとするひとがいたらヘボだ。『吹越』(1976)所収。(今井 聖)


April 3042009

 風ぐるま昭和の赤いセルロイド

                           高橋 龍

はもうめったに見かけないが、昭和30年生まれの私にとってセルロイドは身近なものだった。色はきれいだけど表面は弱くて、強くぶつけるとぺこんと内側にへこんでもとに戻らなかった。人形、筆箱、ああそう言えば、くるくる回る風車の羽根もセルロイドだった。昭和と言っても幅が広くて思い出も様々だろうけど、およそ半世紀前の暮らしの記憶は暗く湿っていて、あまり戻りたくはない。それでも掲句を読んで小さいとき風車に持っていた感情を懐かしく思い出した。色とりどりの風車は賑やかなお祭りに結びついていて心が弾む。セルロイドのお面も風車も憧れだったけど、握りしめた50円を使うのが惜しくて買わなかった。派手な色の少なかった時代に鮮やかな赤は特別の色。過ぎ去った日への郷愁を誘いつつ風車は回り続ける。セルロイドは燃えやすいという欠点があるため今はほとんど作られていないと聞くが、平成の風車は何で作られているのだろうか。「龍年纂・第七」(2009/04/15発行)所載。(三宅やよい)


April 2942009

 春徂くやまごつく旅の五六日

                           吉川英治

五の「春徂(ゆ)くや」は「春行くや」の意。「行く春」とともによく使われる季語で春の終わり。もう夏が近い。季節の変わり目だから、天候は不順でまだ安定していない。取材旅行の旅先であろうか。おそらくよく知らない土地だから、土地については詳しくない。それに加えて天候が不順ゆえに、いろいろとまごついてしまうことが多いのだろう。しかも一日や二日の旅ではないし、かといって長期滞在というわけでもないから、どこかしら中途半端である。主語が誰であるにせよ、ずばり「まごつく」という一語が効いている。同情したいところだが、滑稽な味わいも残していて、思わずほくそ笑んでしまう一句である。英治は取材のおりの旅行記などに俳句を書き残していた。「夏隣り古き三里の灸のあと」という句も、旅先での無聊の一句かと思われる。芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はともかく、室生犀星の「行春や版木にのこる手毬唄」もよく知られた秀句である。英治といえば、無名時代(大正年間)に新作落語を七作書いていたことが、最近ニュースになった。そのうちの「弘法の灸」という噺が、十日ほど前に噺家によって初めて上演された。ぜひ聴いてみたいものである。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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