史上最も冴えないゴールデン・ウイーク。往く春や鳥泣き豚の目に涙。(哲




2009ソスN4ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2942009

 春徂くやまごつく旅の五六日

                           吉川英治

五の「春徂(ゆ)くや」は「春行くや」の意。「行く春」とともによく使われる季語で春の終わり。もう夏が近い。季節の変わり目だから、天候は不順でまだ安定していない。取材旅行の旅先であろうか。おそらくよく知らない土地だから、土地については詳しくない。それに加えて天候が不順ゆえに、いろいろとまごついてしまうことが多いのだろう。しかも一日や二日の旅ではないし、かといって長期滞在というわけでもないから、どこかしら中途半端である。主語が誰であるにせよ、ずばり「まごつく」という一語が効いている。同情したいところだが、滑稽な味わいも残していて、思わずほくそ笑んでしまう一句である。英治は取材のおりの旅行記などに俳句を書き残していた。「夏隣り古き三里の灸のあと」という句も、旅先での無聊の一句かと思われる。芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はともかく、室生犀星の「行春や版木にのこる手毬唄」もよく知られた秀句である。英治といえば、無名時代(大正年間)に新作落語を七作書いていたことが、最近ニュースになった。そのうちの「弘法の灸」という噺が、十日ほど前に噺家によって初めて上演された。ぜひ聴いてみたいものである。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2842009

 朧夜の切株は木を恋うてをり

                           百瀬七生子

い輪郭の春の月と、鮮やかに輝く秋の月。どちらもそれぞれ美しく、古来より人々に愛されてきたものだが、理屈をいえばその差は空気中の湿度が影響している気象現象である。しかし朧夜が持つ格別な風情には、明るくもなく、暗くもなく、曖昧という音感に漂う月のありようが、大気を一層潤ませているように思う。まろやかな月光がしっとりしみ込む春の夜。年輪をあらわに夜気にさらした切株が、ありし日の思い出に身をゆだねている。大樹だった頃の一本の幹の輪郭をうっとりと懐かしみ、千枚の若葉の繁りを狂おしく宙に描く。太陽の光をやさしく漉してから注ぐ乳白色の月の光に、春の大気が加わると、痛みを持つものに声を与えてしまうのかもしれない。朧夜にそっと耳を澄ませば、木の言葉や、石のつぶやきに地上は満たされていることだろう。〈胴ながく兎抱かるる山桜〉〈仏にも木の香のむかし朴の花〉『海光』(2009)所収。(土肥あき子)


April 2742009

 酒好きのわれら田螺をみて育ち

                           館岡誠二

の肴としてよく出てくる「田螺(たにし)」を、私は食べられない。いや、食べない。理由は、句の男たちのように「田螺をみて」育ったからだ。育った土地に食べる風習がなかったこともあって、田螺は食べるものではなく、いつだって見るものだった。待ちかねた春を告げる生き物のひとつだった。冬眠から目覚めた田螺たちが、田んぼのなかで道を作るようにかすかに動いていく様子を眺めるのが好きだった。田螺が出てくる頃は、もうあたりはすっかり春で、田螺をみつめる時間には同時に日向ぼこの心地よさがあった。私ばかりではなく、昔の遊び仲間たちもよく屈みこむようにして飽かず眺めていたものである。そんなふうに、往時には道端などで何かを熱心にみつめて屈みこんでいる子供がいたものだったが……。句の男たちもそんなふうに育ってきて、いまやいっちょまえの酒飲みになっている。そんな彼らの前に、田螺が出てきたのだろう。が、誰も箸をつけようとはせず、田螺を見た子供時代の思い出を肴に飲んでいる図だ。この場に私がいたとすれば、「幼なじみを食うわけにはいかねえよ、なあ」とでも言ったところである。大人になってからの同級会を思い出した。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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