博多駅前のホットドッグとビールの店。禁煙席無し!!!。朝から営業している。(哲




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April 2742009

 酒好きのわれら田螺をみて育ち

                           館岡誠二

の肴としてよく出てくる「田螺(たにし)」を、私は食べられない。いや、食べない。理由は、句の男たちのように「田螺をみて」育ったからだ。育った土地に食べる風習がなかったこともあって、田螺は食べるものではなく、いつだって見るものだった。待ちかねた春を告げる生き物のひとつだった。冬眠から目覚めた田螺たちが、田んぼのなかで道を作るようにかすかに動いていく様子を眺めるのが好きだった。田螺が出てくる頃は、もうあたりはすっかり春で、田螺をみつめる時間には同時に日向ぼこの心地よさがあった。私ばかりではなく、昔の遊び仲間たちもよく屈みこむようにして飽かず眺めていたものである。そんなふうに、往時には道端などで何かを熱心にみつめて屈みこんでいる子供がいたものだったが……。句の男たちもそんなふうに育ってきて、いまやいっちょまえの酒飲みになっている。そんな彼らの前に、田螺が出てきたのだろう。が、誰も箸をつけようとはせず、田螺を見た子供時代の思い出を肴に飲んでいる図だ。この場に私がいたとすれば、「幼なじみを食うわけにはいかねえよ、なあ」とでも言ったところである。大人になってからの同級会を思い出した。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2642009

 うらやまし思ひ切る時猫の恋

                           越智越人

念ながらわたしは猫を飼ったことがないので、猫の恋なるものが具体的にどのようなものなのかを知りません。ただ、この句を読む限りは、ずいぶんあっさりしたものなのかなと、想像はできます。句の意味するところは単純です。猫のように、わたしもこの恋をすっぱりとあきらめたいものだ、それが出来ないからこんなに胸のうちが苦しい、苦しくて仕方がない、ああ、猫のように簡単に、あの人をあきらめることができないものか、と、そんな意味なのでしょう。ただ、言うまでもなく「猫の恋」の「恋」という言葉の使い方が、人の「恋」とはもともと意味が違うわけで、猫は夜毎枕を濡らして特定の人を思い悩んだり、メールを送って当たりをつけたり、面倒なかけひきをしたりはしません。生殖の欲求と、恋とが、無縁であるとまでは言わないまでも、やはり心情的には両者の間にはかなりの隔たりがあるわけです。それをひとつの言葉で意図的に表してしまうから、このような句が出来上がってくるわけです。とはいうものの、句全体がやけにやるせない雰囲気を漂わせているのは、だれしもこんな思いに、一度は苦しんだことがあるからなのでしょう。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


April 2542009

 姉といふ媼もよけれ諸葛菜

                           千代田葛彦

しい友人の妹さん曰く「おばあちゃんになったら、お姉ちゃんと二人きりで向かい合って千疋屋で苺パフェを食べたいの。お母さんやお父さんの思い出話して、あんな事もあったね、こんなこともあったね、なんて言いながら・・・それが夢なのよ」。ちなみに友人は独身で、妹さんには現在育ち盛りの息子が二人。小さい頃はけんかばかりでも、ある程度の年齢になった姉妹には、不思議な心のつながりがある。この句の作者は男性なので、姉に対する気持ちはまた違うと思うが、媼(おうな)という呼び名に違和感のないお年頃の姉上に注がれる、変わらぬやさしい愛情が感じられる。花大根、むらさきはなな、などさまざまな名前を持つ諸葛菜。ふだんはどうしても、線路際に群れ咲くイメージだが、先日近郊の野原に咲くこの花を間近で見る機会があり、車窓を流れるいつもの紫より心なしか色濃く、一花一花に野の花としての愛らしさが見えた。作者もきっと、そんな瞬間があったのでは、と諸葛菜に姉上の姿を重ねてみるのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)




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