お茶の水駅近くのラーメン店。こうなると一瞬「ここはどこ?」状態に。(哲




2009ソスN4ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2642009

 うらやまし思ひ切る時猫の恋

                           越智越人

念ながらわたしは猫を飼ったことがないので、猫の恋なるものが具体的にどのようなものなのかを知りません。ただ、この句を読む限りは、ずいぶんあっさりしたものなのかなと、想像はできます。句の意味するところは単純です。猫のように、わたしもこの恋をすっぱりとあきらめたいものだ、それが出来ないからこんなに胸のうちが苦しい、苦しくて仕方がない、ああ、猫のように簡単に、あの人をあきらめることができないものか、と、そんな意味なのでしょう。ただ、言うまでもなく「猫の恋」の「恋」という言葉の使い方が、人の「恋」とはもともと意味が違うわけで、猫は夜毎枕を濡らして特定の人を思い悩んだり、メールを送って当たりをつけたり、面倒なかけひきをしたりはしません。生殖の欲求と、恋とが、無縁であるとまでは言わないまでも、やはり心情的には両者の間にはかなりの隔たりがあるわけです。それをひとつの言葉で意図的に表してしまうから、このような句が出来上がってくるわけです。とはいうものの、句全体がやけにやるせない雰囲気を漂わせているのは、だれしもこんな思いに、一度は苦しんだことがあるからなのでしょう。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


April 2542009

 姉といふ媼もよけれ諸葛菜

                           千代田葛彦

しい友人の妹さん曰く「おばあちゃんになったら、お姉ちゃんと二人きりで向かい合って千疋屋で苺パフェを食べたいの。お母さんやお父さんの思い出話して、あんな事もあったね、こんなこともあったね、なんて言いながら・・・それが夢なのよ」。ちなみに友人は独身で、妹さんには現在育ち盛りの息子が二人。小さい頃はけんかばかりでも、ある程度の年齢になった姉妹には、不思議な心のつながりがある。この句の作者は男性なので、姉に対する気持ちはまた違うと思うが、媼(おうな)という呼び名に違和感のないお年頃の姉上に注がれる、変わらぬやさしい愛情が感じられる。花大根、むらさきはなな、などさまざまな名前を持つ諸葛菜。ふだんはどうしても、線路際に群れ咲くイメージだが、先日近郊の野原に咲くこの花を間近で見る機会があり、車窓を流れるいつもの紫より心なしか色濃く、一花一花に野の花としての愛らしさが見えた。作者もきっと、そんな瞬間があったのでは、と諸葛菜に姉上の姿を重ねてみるのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


April 2442009

 立ち上がるまつ青な草蛇脱げり

                           秋本敦子

実の風景や事物から得られる瑞瑞しい実感と、そこから発する動的なエネルギーが表現に満ちている。蛇の脱皮の営みを包み込む草原の息吹が感じられる。草を動的に捉えて「立ち上がる」というところ。草に対して敢えて「まつ青」と形容するところ。季題である蛇の衣や蛇皮を脱ぐとは違う「蛇脱げり」と舌足らずのようにいうところ。すんなりと書かれているように見える表現のひとつひとつに強烈な作者の個性と工夫が生かされている。過去の文体やら「俳諧味」やらにちょっと自己流をトッピングして俳句巧者を気取る俳人も多い。そういう俳人に限って「だいたい典拠のない表現なんか成り立つのかね」とうそぶく。この句のように、まっさらな自分だけのものへの希求無くしてどこに文学の志があろうか。『幻氷』(2002)所収。(今井 聖)




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