酔って裸で騒ぐ男より、そいつを寄ってたかって袋だたきにする風潮が怖い。(哲




2009ソスN4ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2542009

 姉といふ媼もよけれ諸葛菜

                           千代田葛彦

しい友人の妹さん曰く「おばあちゃんになったら、お姉ちゃんと二人きりで向かい合って千疋屋で苺パフェを食べたいの。お母さんやお父さんの思い出話して、あんな事もあったね、こんなこともあったね、なんて言いながら・・・それが夢なのよ」。ちなみに友人は独身で、妹さんには現在育ち盛りの息子が二人。小さい頃はけんかばかりでも、ある程度の年齢になった姉妹には、不思議な心のつながりがある。この句の作者は男性なので、姉に対する気持ちはまた違うと思うが、媼(おうな)という呼び名に違和感のないお年頃の姉上に注がれる、変わらぬやさしい愛情が感じられる。花大根、むらさきはなな、などさまざまな名前を持つ諸葛菜。ふだんはどうしても、線路際に群れ咲くイメージだが、先日近郊の野原に咲くこの花を間近で見る機会があり、車窓を流れるいつもの紫より心なしか色濃く、一花一花に野の花としての愛らしさが見えた。作者もきっと、そんな瞬間があったのでは、と諸葛菜に姉上の姿を重ねてみるのだった。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


April 2442009

 立ち上がるまつ青な草蛇脱げり

                           秋本敦子

実の風景や事物から得られる瑞瑞しい実感と、そこから発する動的なエネルギーが表現に満ちている。蛇の脱皮の営みを包み込む草原の息吹が感じられる。草を動的に捉えて「立ち上がる」というところ。草に対して敢えて「まつ青」と形容するところ。季題である蛇の衣や蛇皮を脱ぐとは違う「蛇脱げり」と舌足らずのようにいうところ。すんなりと書かれているように見える表現のひとつひとつに強烈な作者の個性と工夫が生かされている。過去の文体やら「俳諧味」やらにちょっと自己流をトッピングして俳句巧者を気取る俳人も多い。そういう俳人に限って「だいたい典拠のない表現なんか成り立つのかね」とうそぶく。この句のように、まっさらな自分だけのものへの希求無くしてどこに文学の志があろうか。『幻氷』(2002)所収。(今井 聖)


April 2342009

 珈琲や湖へ大きな春の虹

                           星野麥丘人

琲は作者自身によってブラックとルビが振ってある。珈琲(ブラック)や、と濃く熱く入れた飲み物に詠嘆しているわけで、しかも珈琲を飲んでいる眼前の湖に淡く大きな虹がかかっている。阿部青鞋に「天国へブラック珈琲飲んでから」という句があったように思うが、この句は青鞋の思いに答えたかのような色合いである。春の虹は夏の虹に比べると色も淡く、たちまちのうちに消えてしまう性質を持っているようだが、それだけに美しく名残惜しいものだろう。ゆっくりと珈琲を飲み終わるころには虹は失せて、すっかり元の光景に戻っているのかもしれない。麥丘人(ばくきゅうじん)の句は事実だけを述べているようで、なんともいえない老年の艶のようなものがあり、この句も口に入れると淡々と解ける和菓子のような味わいだ。日々の生活に追われるなかで麥丘人の句を読むと肩の力がほんの少し抜けるような気がする。『燕雀』(1999)所収。(三宅やよい)




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