腰痛再発につき在宅作業。腰をかばうので、思いもかけぬ部位の筋肉が痛む。(哲




2009ソスN4ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2142009

 いくらでも眠れる体サイネリア

                           三好万美

前「夕方ちょっと眠るつもりが起きたら朝だった」という失敗談をしていたら、「眠るのも若さ」と言われたことがある。たしかに加齢とともに、少しの物音にも目覚めてしまうことが多くなった。いくらでも眠れる掲句の身体は、春のけだるさとともに、健やかな若さも表現している。また、いつまでも眠り続ける「いばら姫(眠れる森の美女)」の眠りは、魔法使いの呪いによるものであり、りんごを喉に詰まらせた白雪姫が柩に横たわる姿を王子は「まるで眠っているようだ」とつぶやく。これらの寓話は、眠り続ける姿と禍々しい死はごく親しいものがあると感じさせる。一方キク科のサイネリアの花言葉は「いつも快活」。その名の通り、春そのもののようなカラフルな花との取り合せに、一瞬残るわだかまりは、眠りの底に流れている薄気味悪さをひっそりと引き出すことに成功しているからだろう。〈犬は腹見せ合い眠る桃の村〉〈わたくしを呼んだか振り向けば椿〉『満ち潮』(2009)所収。(土肥あき子)


April 2042009

 朝寝して敗者に似たる思ひあり

                           菅原けい

語は「朝寝」で「春眠」に分類。父が早起きの性だったことと農家だったことで、子供の頃から早起きだった。起床は遅くとも午前六時。それ以上寝ていると、父に容赦なく布団をひっぺがされた。それが性癖となってしまい、夜明け前に起きるのはへっちゃら。と言うよりも、太陽が顔を出す前に自然に目がさめてしまうようになったのである。おかげで、後年ラジオの朝番組のときには大いに役立った。しかし、何かの拍子に、起きると外が少し明るい朝もある。そんなときは、この句の作者のようにみじめな気分になってしまう。「ああ、シッパイした」などとつぶやいたりする。なんとなく損したような気分なのだ。この句はたぶんそんな早起き人間にしかわからないだろうが、少しくらい朝寝したからといって、別に生活に支障があるわけじゃなし、どうしてみじめな気持ちになってしまうのか。自分の意思とかかわりないところで、性癖が崩れることに漠然とした不安を覚えるからなのだろうか。三十代でやむをえずフリーという名の失業者になったときには、早起きの自分にいささか辟易させられた。早く起きたってすることもないので、それまでなら出勤する時間まで何もせずに過ごしていたのだが、これがなかなかに辛かった。早起きは習い性だったけれど、朝の時間に読書とか何かをする習慣はなかったからだ。たまらなくなったので、机の前に次の江戸狂歌を大きく書いて貼っていた時期がある。「世の中に寝るほど楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きてはたらく」。座右の銘のつもりであった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 1942009

 窓ぎわの花に眠気の容疑あり

                           村井和一

とえば人前でスピーチをするときには、下手なジョークを入れずに、場に合った内容の話を、ひたすらまじめに伝えることに終始したほうが、間違いがありません。句を読む時にも、それと同じことが言えるのではないでしょうか。まじめに詠まれた句は、その句がどのように読者に受けとめられるかということに、それほど神経をつかう必要はありません。しかし、多少でも「おふざけ」の要素が入った句は、かなり慎重に読者の受け止めかたを見極めておかないと、とんでもないことになります。本日の句も、「容疑あり」の一語で、大きな危険を冒しています。しかし結果としては、とんでもないことにはならなかったようです。のんびりとした休日の午後、窓際の椅子に座って、好きな音楽でも聴いていたのでしょうか。そのうちにうつらうつらと、心地よい眠気が襲ってきています。この眠気はほかでもないこの花のせいではないかと、他愛のない言いがかりを付けているのです。気がつけば「容疑あり」の一語は、「窓ぎわ」や「花」に負けないほどに、春の明るさを伝えてくれています。「俳句界」(2009年4月号)所載。(松下育男)




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