経済的事情により進学をあきらめる子が増えているという。麻生よ、何とする。(哲




2009ソスN4ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1942009

 窓ぎわの花に眠気の容疑あり

                           村井和一

とえば人前でスピーチをするときには、下手なジョークを入れずに、場に合った内容の話を、ひたすらまじめに伝えることに終始したほうが、間違いがありません。句を読む時にも、それと同じことが言えるのではないでしょうか。まじめに詠まれた句は、その句がどのように読者に受けとめられるかということに、それほど神経をつかう必要はありません。しかし、多少でも「おふざけ」の要素が入った句は、かなり慎重に読者の受け止めかたを見極めておかないと、とんでもないことになります。本日の句も、「容疑あり」の一語で、大きな危険を冒しています。しかし結果としては、とんでもないことにはならなかったようです。のんびりとした休日の午後、窓際の椅子に座って、好きな音楽でも聴いていたのでしょうか。そのうちにうつらうつらと、心地よい眠気が襲ってきています。この眠気はほかでもないこの花のせいではないかと、他愛のない言いがかりを付けているのです。気がつけば「容疑あり」の一語は、「窓ぎわ」や「花」に負けないほどに、春の明るさを伝えてくれています。「俳句界」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 1842009

 ふらここに坐れば木々の集まれり

                           井上弘美

寄駅を出るとすぐ、通勤電車の車窓にこんもりと木々が見え、ああ、また丘がふくらんできたなあ、と実感している。この丘は公園になっていて、不必要な整備が好きな私の住む区にしては、木も地面もまあそのままの貴重な場所だ。その広い公園の端に、すべり台やぶらんこなど遊具が置かれている一画がある。人がいないのを見計らって、逆上がりをしてみたりぶらんこを思いきり漕いだりするのだが、ちょうど今頃がぶらんこには心地よいかも、とこの句を読んで思う。萌え始めた木々に囲まれたぶらんこを遠くから見ている作者。ゆっくりと近づいてぶらんこの前に立つ。体の向きを変え、鎖をつかみながら、その不確かな四角に腰を乗せ、空を仰いだ途端、ぶらんこを囲んでいる木々に包みこまれたような気持ちになったのだろう。そして風をまといつつ、しばらく揺られていたに違いない。〈うらがへりうらがへりゆく春の川〉〈野遊びの終りは貝をひらひけり〉など春の句で終わる句集の最後の一句は〈大いなる夜桜に抱かれにゆく〉。『汀』(2008)所収。(今井肖子)


April 1742009

 顔振つて童女駆けゆく桜ごち

                           岡本 眸

ちは東風のこと。ひとの句を見て才能を感じるところは、自分だったらこう書けるだろうかというのが基準。この句の「見せ場」は「顔振つて」だ。それは誰しも認めるところだろう。この表現が発見されるか否かが秀句と駄句の分水嶺だ。そして、これを発見した喜びのあまり、凡俗はここで安心して「少女」か「少年」を持ってくるだろう。「少年」は字余りだからやはり「少女」かもしれない。一般的情緒が読者を納得させるだろうし、既に「見せ場」は抑えてある。「少女」をもってくる動機は十分だ。しかし、本当の才能はここからだ。「童女」は正真正銘の才能を感じさせる。少女という言葉が女性の年齢的な範囲を曖昧にしか示せないことと、駆けゆく少女がいかに手垢にまみれたロマンへの入口になるかを熟知している作者は「少女」を忌避し、「童女」を用いたのだ。勝負が決まったと思われた時点でもうひとつ上の段階が待っている。季題「桜ごち」は童女が駆けてゆく風景の構成での一般性を意識している。「写生派」を選択した俳人は「一般性」を完全に捨て去ることは難しい。講談社版『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)




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