フランス語でテレビは女性名詞。何故か。などと考えてはいけない。丸暗記。(哲




2009ソスN4ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1642009

 たんぽぽの井戸端会議に参加する

                           薮ノ内君代

休みに会社のまわりを散歩していると古いビルを取り壊した更地のあちこちにたんぽぽが咲いているのが目につく。すぐに駐車場や新しいビルの工事が始まる短い間だけど、地面があれば明るく黄色い花を咲かせ白い綿毛にのせて種を飛ばすのだろう。本当にたくましくて、可愛い花だ。「たんぽぽの」の「の」に軽い切れを含ませて二句一章で読むと、たんぽぽは後景に退いて、道端に集まっている井戸端会議に作者が参加しているともとれる。私としては群がって咲いているたんぽぽの井戸端会議に自分もたんぽぽになって参加していると想像するのが楽しい。春だもの。ぽかぽかと暖かい野原にうとうと居眠りしているうちにたんぽぽになってしまうかもしれない。意外なところにひょいと非日常への出入り口ができる。その言葉の扉を探すのも俳句を読む楽しみの一つだろう。『風のなぎさ』(2007)所収。(三宅やよい)


April 1542009

 甕埋めむ陽炎くらき土の中

                           多田智満子

ゆえに甕を土のなかに埋めるのか――と、この場合、余計な詮索をする必要はあるまい。「何ゆえに」に意味があるのではなく、甕を埋めるそのこと自体に意味があるのだ。しかし、土を掘り起こして甕をとり出すというのではなく、逆に甕を埋めるという行為、これは尋常な行為とは言いがたい。何かしら有形無形のものを秘蔵した甕であろう。あやしい胡散臭さが漂う。陽炎そのものが暗いというわけではあるまいが、もしかして陽炎が暗く感じられるかもしれないところに、どうやら胡散臭さは濃厚に感じられるとも言える。陽炎ははかなくて頼りないもの。そんな陽炎がゆらめく土を、無心に掘り起こしている人影が見えてくる。春とはいえ、土のなかは暗い。この句をくり返し眺めていると、幽鬼のような句姿が見えてくる。智満子はサン=ジョン・ペルスの詩のすぐれた訳でも知られた詩人で、短歌も作った。俳句は死に到る病床で書かれたもので、死の影と向き合う詩魂が感じられる。それは決して悲愴というよりも、持ち前の“知”によって貫かれている。157句が遺句集『風のかたみ』としてまとめられ、2003年1月の告別式の際に配られた。ほかに「身の内に死はやはらかき冬の疣」「流れ星我より我の脱け落つる」など、テンションの高い句が多い。詩集『封を切ると』付録(2004)所収。(八木忠栄)


April 1442009

 切絵師の肩にてふてふとまりけり

                           加古宗也

絵師の技を目の当たりにしたことが二度ある。一度目は、北海道の「やまざき」というバーで、マスターに横顔をするするっと切り絵で作っていただいた。白い紙を切り抜くだけで、しかしそれはたしかに似顔絵なのだった。二度目は寄席の紙切り芸で、客席からのリクエストに即座になんでも応えていた。こちらは輪郭というより、つながり合った線が繊細な形をなして、そして切り抜かれた紙もまた反転する絵になっている見事なものだった。切り絵はなにより風を嫌うため、室内の景色であり、掲句にも蝶は通常いてはならないものだ。鋏の先から繰り出される万象は、平面でありながらその細密さに驚いたり、生々しさに魅入ったりするのだが、そこへ生というにはあまりに簡単なかたちの蝶が舞っていることは、意外な偶然というより、妙な胸騒ぎを覚えることだろう。ひらひらと切絵師にまとわりつく蝶は、切絵師が作品にうっかり命を吹き込んでしまったかのように見えたに違いない。〈朝刊でくるんでありし芽うどかな〉〈快晴といふよろこびに茶を摘める〉『花の雨』(2009)所収。(土肥あき子)




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