三鷹図書館の貸出し期間が三週間から二週間に。すぐに「返せ」と督促状が。(哲




2009N413句(前日までの二句を含む)

April 1342009

 ぴいぴい昭和のテレホンカード鳥雲に

                           望月たけし

衆電話をかけている。「ぴいぴい」は、むろんテレホンカードの出し入れの際に鳴る機械音だ。この音を鳥の鳴き声にかけてあるのかとも思ったが、いささか無理がある。それよりも、人が電話をかけるときの視線に注目した。ダイヤルや文字盤に電話番号を登録してから相手が出る迄のわずかな時間、たいていの人は所在なげに上方を見上げて待つ。この間、ダイヤルを睨んだままで待つ人は少ないだろう。作者も何気なく空を見上げたところ、偶然にも北に帰って行く鳥影が見えたのである。ここでごく自然に、作者と空とが結びつく。ああ、もうそんな季節なのか。束の間、去り行くものへの愛惜の念が胸をよぎる。そう言えば、このテレホンカードも去って行った昭和のものだ。電話をかけ終わると、また「ぴいぴい」とカードが鳴いた。機械的な音だけれど、それが今はなんだかいとおしいような感じを受ける。そこで作者はもう一度、はるかな空を見上げたに違いない。何気ない現代の日常的な行為を巧みに捉えた、去り行くものへの挽歌である。「ぴいぴい」が実に良く効いている。一読、後を引く。これが「現代俳句」というものだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 1242009

 ふらここを降り正夢を見失う

                           塩野谷仁

語は「ふらここ」、春です。要はブランコのことですが、俳句を読んでいると、日常では決して使わない、俳句だけの世界で生きている語彙に出くわします。たとえば蛍のことを、「ほうたる」とも言うようですが、はじめてそれを見たときには、なんとも不可思議な感覚を持ちました。「ふらここ」という語も、意味がわかった後も、どうしても別のものを連想してしまいます。平安時代から使われていた和語だと言われても、いったんそうなってしまうと、なかなかそのものが頭から離れてくれないのです。それはともかく、今日の句です。一番目立っているのは「正夢」の一語でしょうか。言うまでもなく、将来現実になる夢のことです。これだけで、句全体を覆うだけの抒情が生み出されています。ところが作者は、それをもう一ひねりして、「正夢を見失う」としています。それによって読者は、想像をたくましくせざるを得なくなります。ブランコに乗っている間は、しっかりと胸に抱えていた正夢が、地上に降りた途端に失われてしまう。まるで現実と夢の境に綱をたらして、ひとしきり揺れてきたかのようです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 1142009

 本当の空色の空朝桜

                           永野由美子

の朝桜は、少し濡れているような気がする。それは昨夜の雨なのか、朝靄の名残なのか。満開にはまだ少し間のある、紅のぬけきらない桜。ときおり花を激しく揺らす鳥の姿も見える。朝の光を散らす桜に透ける空を仰ぎながら作者は、ああ日本の空の青だ、と思ったのだろう。本当の空色がどんな色なのか、それを考えてみたところであまり意味はない。二人で一緒に空を仰いでいても、私の青空とあなたの青空は違うだろうし、それを確かめる術はない。ただ、その青空がくれる心地よさを共有していれば幸せだ。別に空が青いくらいで幸せになんかならない、という人はそれでもいい。ああ、そんな気持ちになったことがある、という人はその青空を思い出すかもしれない。それぞれである。開花してから一気に暖かくならなかった東京の桜、やや潔さに欠けつつ終わってゆく。それも勝手な言いぐさだなと、アスファルトの上を行き所なく転がる花屑を、謝るような御礼を言うような気持ちで見送っている。俳誌「阿蘇」(2008・七月号)所載。(今井肖子)




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