明け初めてくると鳥たちが鳴きはじめる。あれは単に空腹のせいだそうです。(哲




2009ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042009

 からうじて鶯餅のかたちせる

                           桂 信子

餅が色のみならず形も鶯に似せているということを初めて知った。あの餅のかたちのどこが似てるんじゃと驚いたが、こういう句をみるとわが意を得たりである。「いづれが尾いづれが嘴やうぐひす餅 矢島久栄」という句もあるから同じことを思った人もいるのだろう。この句の一番の特徴は副詞の使い方にある。「少し」「やうやく」「たまさか」などの副詞は擬音、擬態語と並んで常套的な用い方をすれば陳腐な情緒を押し出す働きをする。この句の「からうじて」は鶯餅というものの形状の特徴を見事に捉えている。花神コレクション『桂信子』(1992)所収。(今井 聖)


April 0942009

 仔馬跳ね宇宙に満つる微光かな

                           石母田星人

の映画か忘れたが雷鳴の夜に誕生した仔馬が生れて間もなく立ち上がろうとするシーンがあった。そんな健気な仔馬も母馬について初めて戸外に出たときにはなかなか親馬のそばを離れないが、いったん走るコツを覚えると喜々として駆け始める。初めて受ける風も光る青葉も仔馬にはあふれんばかりにまばゆい世界に思えよう。まだ走る動作に慣れない仔馬がぎくしゃく脚を蹴りあげるたび命の躍動が微光となって暗黒の宇宙に満ちてゆく。今ここにある生命の全てはどこかで宇宙の営みと繋がっているのかもしれない。星人と名乗る作者にとって「地球に乗る」ことは季感のみなもとを見つめることであり、それは太陽系、銀河系を感じることである。とあとがきにある。その通り句集には自分の存在と宇宙の関係を大きな流れで捉える句が多く収録されており、小さくまとまりがちな季の捉え方に新しい方向性を指し示しているように思える。「掌に包みたる宙木の芽晴」「脊髄をはしる曙光や山桜」『膝蓋腱反射』(2009)所収。(三宅やよい)


April 0842009

 雲も水も旅をしてをり花筏

                           相生葉留実

が咲いても散っても、雲は流れ水も止むことなく流れている。その雲は地上に散ったはずの桜が、何かの拍子に空に固まって浮かんだみたいに見えているのかもしれない。流れる水は散った花びらを浮かべて、みごとな花筏になっている。悠久の時間を旅している雲も水も、花筏をとりこんだことによって、この句では大きくて美しい時空を造形することができた。雲は天にあり、水は地にあり、天地の間を雲や水を愛で、散った桜/花筏に目を細めて人は行きすぎる。そんな弥生の頃の風情である。葉留実さんはもともと詩人で、私は第一詩集『日常語の稽古』刊行当時から、注目していた女性詩人の一人である。平井照敏主宰の「槙」誌で、ご主人の村嶋正浩さんとならんでいる彼女の名前を発見したときは、「俳句もやるんだ!」と思わずニヤリとした。数年前に詩人の会で久しぶりにお目にかかったのに、今年1月に逝去されたと聞いて言葉を失った。「槙」がなくなった後、「翡翠」誌に移った彼女の俳句をずっと拝見していた。鈴木章和主宰は「どの句にも、そのままの彼女自身がいて、ときに清楚な含羞を見せている」とコメントしている。同誌最新号冒頭には葉留実さんの八句が掲げられている。「長旅の川いま海へ大晦日」「浮世はなれ彼の世へゆく日冬銀河」。今は「彼の世」の春のどのあたりを、ゆったりと「長旅」していらっしゃるだろうか。合掌。「槙」231号(2000)所載。(八木忠栄)




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