早くも散りはじめました。どこかで桜吹雪に遭遇したいな、花筏にも。




2009ソスN4ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0642009

 泣きに来し裏川いまも花筏

                           中野きみ

歌にセンチメンタルな感情を込めるのは、意外に難しい。込め過ぎるとあざとくなり、さらっとしすぎると読者は感情移入できなくなる。そのあたりを、この句は程よくクリアーできていると思った。「花筏(はないかだ)」は、散った桜の花びらが水に浮かんで流れて行く様を,筏に見たてたものだ。裏の川に泣きに来たのは、もうずいぶんと昔の少女時代のこと。何がそんなに哀しかったのか。誰にも涙を見せたくなかったので、川淵に来てひとり泣いたことはよく覚えている。あのときも涙でぼやけてはいたけれど、いま眼前を行くのと同じように花びらの帯が流れていたっけ。純真だった、いや純粋過ぎたあの頃。毎年春になれば、こうして花筏は同じように流れて行くが、もうあの頃の自分は帰ってこないのだ。美しい花筏に触発されて、作者はしばし心地よい感傷に浸っている。そして、私という読者もまた……。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 0542009

 小指より開け子が見する桜貝

                           中山フジ江

語は「桜貝」、春です。歳時記によると、「古くは花貝といわれた」とあります。その名を見ればおのずと、昔から人にやさしく見つめられつづけてきたのだということがわかります。身をかがめて拾われて、柔らかな手のひらに乗せられ、美しい美しいと愛でられてきたのでしょう。その思いそのままに、本日の句はひそやかで、小さくて、いとしい感情に包まれています。包んでいるのは子供の手。ぷっくりと、まだ赤ん坊のころの肉を付けたままのようです。「お母さん、いいものを見せてあげる」と、差し出された腕の先はしっかりと握られ、何が出てくるのかと被せる顔の前で、おもむろに小さな指から開かれてゆきます。小指が伸び、薬指が伸びた頃には、すでに貝の半身が色あざやかに目の前に現れ、見れば子供の爪のようにかわいらしい桜貝が出てきています。読む人をどこまでも優しい気持ちに導いてくれる、あたたかな春の句になっています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 0442009

 流し雛波音に耳慣れてきて

                           荒井八雪

流しの行事は今も行われているが、その時期は、新暦、旧暦の三月三日、春分の日など地方によってさまざまだ。吉野川に雛を流す奈良県五条市の流し雛は、現在四月の第一日曜日ということなので明日。写真を見ると、かわいい着物姿の子供達が、紙雛をのせた竹の舟を手に手に畦道を歩いている。そして、吉野の清流に雛を流して祈っているのだが、その着物の色は、千代紙を思い出させる鮮やかでどこか哀しい日本の赤や水色だ。紙雛はいわゆる形代であり、身の穢れを流し病を封じるといい、雛流しは、静かでやさしい日本古来の行事のひとつといえる。この句は、波音と詠まれているので海の雛流しなのだろう。作者は雛を乗せた舟をずっと見送っている。春の日の散らばる海を見つめて佇むうち、くり返される波音がいつか海の心音のように、自分の体が刻むリズムと重なり合ってゆく。そんな、耳が慣れる、もあるのかもしれない、とふと思った。『蝶ほどの』(2008)所収。(今井肖子)




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